三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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甲斐宗運(かい・そううん)
肥後の人(1515~1583)
肥後の大名・阿蘇家の軍師。宗運は法号で本名は甲斐親直(ちかなお)。生涯で60数回の戦に出陣し不敗と伝わる。
阿蘇家は小勢力ながら北は大友家、南は相良家と同盟を結び長く安定を保っていた。
だが薩摩の島津家が台頭し、1578年に耳川の戦いで大友家に大勝すると均衡は崩れた。
肥後の国人衆の多くは島津家や、同じく勢力を強めていた肥前の龍造寺家に鞍替えしたが、宗運は変わらず大友家との同盟を継続させた。
1580年、利害の一致したそれら国人衆の連合軍が阿蘇家を攻め、宗運が迎え撃った。
川を挟んで対陣したが前夜の大雨で川が増水し、渡河を諦めた隈部親永(くまべ・ちかなが)が酒盛りをしていると聞くと、宗運は未明に強行渡河して急襲し大勝した。
だが1581年、宗運は大友家に見切りをつけ阿蘇家を龍造寺家に鞍替えさせた。
一方で相良家は島津家に降伏し、当主の相良義陽(さがら・よしひ)は阿蘇家の攻撃を命じられた。
だが義陽と宗運は昵懇の間柄で、主家と親友の間で板挟みになった義陽は自らの死を祈願して出陣し、無防備な平原に陣を敷くと甲斐軍の猛攻にさらされても一人退却せず、床机に腰掛けたまま首を取られた。
義陽の首を眼にした宗運は落涙し「これで島津家を妨げる者はいなくなった。阿蘇家もあと数年の命だろう」と語ったという。
阿蘇家はしのぎを削る島津家、龍造寺家の二大勢力のどちらにも肩入れできず、また島津家も宗運を恐れて容易に手出しできず、宗運は両家の間を渡り歩く外交戦略で阿蘇家の命運を保とうとしたが1583年、急逝した。孫娘に毒殺されたとする説もある。
「島津家には決して戦いを仕掛けず守勢に徹し、天下を統一する者が現れるのを待て」と遺言したがその2年後、嫡子の甲斐親英(ちかひで)が不用意に島津方の城を攻めたことにより報復を受け甲斐家は降伏。
残された阿蘇家もわずか2歳の当主を抱えてはなす術も無く、やはり島津家に降った。
~甲斐宗運毒殺説~
宗運は嫡男・甲斐親英の娘、つまり孫娘に毒殺されたとする説がある。
阿蘇家に忠誠を誓う宗運は、それを裏切る者は一族だろうと容赦せず、日向の伊東家に内通した次男・三男・四男をもことごとく誅殺した。
いくらなんでもやりすぎだと宗運の排除を企んだ親英も殺そうとしたが、それは家臣の嘆願により止められた。
親英の妻は激怒したが、かつて伊東家との内通を疑われた父が宗運に殺された際に「決して宗運を恨まず、復讐もしない」と神前で誓わされていたため自分では手を下せず、娘に命じて毒を盛らせた、という。
※アイコンは笮融
大村純忠(おおむら・すみただ)
肥前の人(1533~1587)
肥前の大名。日本初のキリシタン大名で長崎を発展させたことで著名。
有馬家の次男に生まれたが、母の実家の大村家に男子がなかったため6歳の時に養嗣子となった。
18歳で家督を継いだが、純忠の養子縁組の後に生まれ、他家に養子に出された大村家の庶長子である後藤貴明(ごとう・たかあき)との間には禍根が残った。
1562年、キリスト教に興味を抱き、同時に財政改革を図るため純忠はポルトガルの貿易船に横瀬浦の港を提供した。
海外貿易で国庫を潤し、イエズス会から洗礼も受けた純忠はキリスト教を大いに奨励し、領民を教化し各地から信者を招いた結果、最盛期には実に6万人、日本国内の信者の約半数を領内に集めた。
しかしあまりに熱が入りすぎ、領内の寺社や墓地を破壊し、僧侶や改宗しない領民の殺害に及び、武器と引き換えに海外へ他宗の領民を奴隷として輸出するなどしたため大きな反発も招いた。
後藤貴明はそれら不平分子とともに反乱を起こすと横瀬浦を焼き払ったが、純忠は代わって長崎をポルトガル人に提供した。
当時は寒村に過ぎなかった長崎はこれを機に現在も続く大都市へと発展していく。
1572年、貴明率いる1千5百の兵に居城を囲まれたが、非戦闘員を含めても80名、士官はたった7名の小勢で純忠は援軍が駆けつけるまで耐え抜いた。
1578年には長崎を龍造寺家に攻められたが、この時にはポルトガル人が協力し撃退に成功した。だが結局は長男を除く3人の息子を人質に取られ、龍造寺家に従属した。
しかし1584年、沖田畷の戦いで当主の龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死すると独立を果たした。純忠も参戦していたが、敵方についた実家の有馬軍を相手に戦意はなく、空砲を撃っていたため、隆信を討ち取った島津家は大村軍に追撃を掛けなかった。
また1582年には同じキリシタン大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)らと協力し天正少年使節団を欧州へ派遣している。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐に協力し、大村家は本領安堵された。
純忠はすでに死の床にあり、死の前日に捕虜に恩赦を与え、飼っていた小鳥も放そうとした。
だがその体力すら無かったため侍女に命じると、彼女は小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は激怒した。
すぐに怒りは神の意志に反すると悔やみ、純忠は立派な帯を侍女に与え「小鳥はデウス様が作られたものであるから愛情を持って欲しい」と述べたという。
享年55。バテレン追放令が出される前月の死であった。
家督は嫡子の大村喜前(よしあき)が継いだが、相次ぐ禁止令に逆らえず1602年にはキリスト教を棄て、一転して信徒を激しく弾圧した。
それを恨まれ1616年、キリスト教徒によって喜前が毒殺されると、まるで呪いでも掛けられたように以降も当主が早逝し続け一時は血脈が途絶え改易も危ぶまれたが、他家から養嗣子を迎えると安定を迎え、大村家は幕末まで存続した。
※アイコンは馬邈
大友義統(おおとも・よしむね)
豊後の人(1558~1610)
豊後の大名・大友宗麟(そうりん)の嫡子。
1576年、宗麟の隠居により家督を継いだが、父も依然として実権を握り、二頭政治を布いた。
1578年、耳川の戦いで島津家に大敗すると、家中に内紛が起こり、義統と宗麟も対立しそれに拍車を掛けた。
寡兵ながら優勢に戦いを進めていた立花道雪(たちばな・どうせつ)も死去し、肥前では龍造寺家が台頭。筑前・筑後の国人衆は次々と離反し、大友家の勢力は著しく後退した。
1586年、島津軍が豊後に攻め寄せると大友家は瓦解を始めた。立花道雪と並び称された高橋紹運(たかはし・じょううん)は玉砕し、豊臣家から派遣された遠征軍も、軍監を務めた仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策で惨敗。
戦意喪失した義統は奮闘を続ける宗麟や重臣を尻目に居城を捨て後方に逃れてしまった。
だが翌1587年、高橋紹運の命に代えた足止めが功を奏し、豊臣秀吉自ら率いる遠征軍が大友家の滅亡直前に間に合った。
島津家は秀吉に降伏し、大友家は豊後を安堵された。島津家の降伏を前に宗麟は病没したが、義統は秀吉と馬が合い、一字拝領し大友吉統(よしむね)と改名した。
小田原征伐や文禄の役にも参戦し、1592年には嫡子の大友義乗(よしのり)に家督を譲った。
その後も父と同じように実権を握り続け、自ら朝鮮での戦いも続けていたが1593年、友軍の小西行長(こにし・ゆきなが)が戦死したという誤報を信じて撤退したところ、秀吉の逆鱗に触れあえなく改易された。
吉統は徳川家、佐竹家、毛利家などの下を転々とし、1598年に秀吉が没するとようやく赦免され幽閉状態を脱した。
その後は豊臣家に仕え1600年、関ヶ原の戦いでは周囲の反対を押し切り、西軍に参加すると旧領の豊後へ進軍した。
各地に散らばっていた大友家の旧臣が集結し兵力は膨れ上がったが、豊前の黒田如水(官兵衛)が迎撃に出ると、かつて秀吉の軍師を務めた智謀に翻弄され、大友軍は連敗。
吉統は剃髪すると妹婿で黒田家の重臣・母里友信(もり・とものぶ)を頼り降伏した。
吉統は常陸に流され、1610年に同地で没した。
晩年の事績は不詳だが、亡くなるまで家中に伝わる膨大な史料を「大友家文書録」としてまとめ上げたため、滅亡した大名家としては異例なことに詳細な歴史が現在に伝わっている。
嫡子の大友義乗ははじめ秀吉の小姓だったが、父の改易後に徳川家に仕えていたため、関ヶ原の戦い後も処罰されず旗本として存続した。
義乗が没するとその息子も早逝し嫡流は途絶えてしまったが、大友家は高家(貴族)として再興され、幕末まで続いた。
吉統は大友家を滅ぼした元凶としてしばしば無能に描かれるが、史料でも優柔不断で酒癖、女癖が悪く、またキリスト教に傾倒するあまり神社仏閣を破壊し僧侶を迫害したと記され、さらに大友家衰退のきっかけとなった耳川の戦いを主導したのも彼であり、少なくとも有能な人物とは思えない。
※アイコンは袁術
伊東義祐(いとう・よしすけ)
日向の人(1512~1585)
日向の大名。
1533年、8代当主の兄が没すると、叔父の伊東祐武(すけたけ)が反乱し居城を占拠した。
義祐と弟の伊東祐吉(すけよし)は京に落ち延びようとしたが、家臣に説得されて祐武と対決し、自害に追い込み城も奪回した。
家督ははじめ祐吉が継ぎ義祐は出家したが、わずか3年後に祐吉も病没したため1536年、義祐が家督を継いだ。
地方大名としては異例の高位である従三位に叙せられ、嫡子が夭折すると再び出家し「三位入道」を称した。
義祐は日向南部の飫肥をめぐって島津家と激しい争奪戦を繰り広げた。
1560年、島津家は幕府に調停を求め、13代将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)は和睦を命じたが義祐は聞き入れなかった。
幕府から伊勢貞孝(いせ・さだたか)が派遣されると義祐は伊東家の5代当主が8代将軍・足利義政から賜った「日向・薩摩・大隅の者は伊東家が治める。ただし島津家は除く」というあまりにも伊東家に都合が良すぎる書状を示した。
当時の幕府が用いていない言葉遣いが散見され、伊勢貞孝は偽書だと思ったが確証はなく、やむを得ず飫肥を幕府の直轄領に定め停戦を命じた。
だが義祐はそれをも無視して飫肥に侵攻を続けた。
1568年、義祐は2万の大軍で飫肥城を包囲し援軍も退けると、島津貴久(しまづ・たかひさ)はたまらず和睦を申し入れ飫肥はついに伊東家の手に落ちた。
伊東家の最盛期を築いた義祐は奢侈に溺れ、本拠地の佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるまでに発展したが、一方で政治・軍事をおろそかにした家中は次第に衰退していった。
1572年、島津貴久が死去するとそれまで優勢に侵攻を進めていた真幸院を一息に落とすべく、伊東・相良の連合軍は島津方の加久藤城を囲んだ。
だが3千の連合軍は島津義弘の率いるわずか3百の寡兵に大敗し、多くの重臣を討たれた。
この敗戦を気に島津家の反撃が始まり、次々と日向国内の支城を落とされていった。
だがこの頃には義祐の周囲には彼の機嫌を取るだけの佞臣がはびこっており、救援要請は義祐の側近らによって握りつぶされ、伊東軍は連携もできないまま各個撃破された。
1577年には日向北部の土持親成(つちもと・ちかしげ)が反旗を翻し、南から攻め上がる島津家とともに伊東領を挟撃した。
ようやく事態を悟った義祐は孫の伊東義賢(いとう・よしかた)に家督を譲るなど人事の一新を図ったが後の祭りで、次々と国人衆の離反を招き、一族の者すら寝返るに及ぶと、もはや謀叛を恐れ挙兵することすらできなくなった。
義祐は日向を捨て、次男の正室の実家である大友家を頼り、三男の伊東祐兵(すけたか)らを連れ豊後へと落ち延びていった。
その途上、筆頭家老格の落合家まで裏切ったと知ると、義祐は自身の愚行を悔やみ切腹しようとしたが、家臣に止められたという。
豊後へと続く山中を雪中行軍で越え、吹雪や島津家や山賊に襲われ、150名程度いた一行は半分にまで減った。なお一行には後の伊東マンショも含まれている。
大友宗麟(おおとも・そうりん)は義祐を迎え入れ、自身の野望もあり日向に大軍を派遣したが、耳川の戦いで島津家に大敗し、逆に大友家衰亡のきっかけにさえなった。
義祐らは敗戦の責任者のように見られ立場を失い、また宗麟の息子・大友義統(よしむね)が祐兵夫人に懸想したため、義祐・祐兵ら20名は大友家を離れた。
祐兵は羽柴秀吉に仕えていた一族のつてをたどり秀吉に仕えたが、義祐は「流浪の身たりとも、三位入道が羽柴ごときに追従できるか」と拒絶し、供の者を一人連れ中国地方を漫遊の旅に出た。
途中でお供もまいて一人で気ままに旅していたが、やがて病を得ると祐兵のいる堺へ向かった。
だがその途上の船内で危篤状態に陥り、面倒に思った船頭によって砂浜に捨て置かれた。
たまたま通りがかった祐兵夫人に保護され、祐兵の屋敷にはたどり着いたものの、7日あまりの闘病の末に73歳で没した。
義祐は悲惨な最期を遂げたが、祐兵は秀吉のもとで活躍し、1588年には旧領の飫肥を与えられ大名に復帰した。
関ヶ原の戦いでは時勢を見抜いて東軍につき所領を安堵され、伊東家は飫肥5万石の藩主として幕末まで続いた。
※アイコンは韋康
有馬晴信(ありま・はるのぶ)
肥前の人(1567~1612)
肥前の島原半島を治めた大名・有馬義貞(よしさだ)の次男。
義貞は1570年に長男に家督を譲ったが、翌年に没してしまったため晴信がわずか5歳で跡を継いだ。
有馬家は龍造寺家に臣従していたが、1584年に島津義久(よしひさ)に寝返ると、沖田畷の戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)を討ち取り独立を果たした。
晴信は当初はキリスト教を迫害していたが14歳で洗礼を受けると一転して熱心な信者となり、同じくキリシタン大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)や叔父の大村純忠(おおむら・すみただ)らとともに天正遣欧少年使節を派遣し、数万人のキリシタンを保護した。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐が始まるといち早く寝返り、1600年の関ヶ原の戦いでも西軍に属したものの、敗北の報を聞くやすかさず隣国でキリシタン大名でもある小西行長(こにし・ゆきなが)の居城を攻撃するなど、随所で機転の早さを見せ所領を安堵された。
さらに嫡子の有馬直純(なおずみ)を徳川家康に仕えさせ、直純がめとっていた小西行長の姪を離縁し、徳川家康の養女を正室に迎えた有馬家は、南蛮貿易で利益をもたらしていたこともあり、領内に隠れキリシタンを多数匿っていたが目こぼしされていたという。
ところが1609年、晴信の運命は一気に暗転する。
有馬家の朱印船がマカオに寄港した折、ポルトガル船と諍いを起こし、マカオ総司令アンドレ・ペソアに鎮圧され水夫に多数の死者が出た。
ペソアは自ら家康に事件の説明と弁解をしたいと申し出たが、長崎奉行の長谷川藤広(はせがわ・ふじひろ)はポルトガルとの交易が縮小されるのを恐れ、都合よく書き換えた報告書を幕府に送った。
ペソアは藤広が慣例を破って商船の取り締まりを強化していること、生糸の交易で不利益を被っていることに以前から不満を抱いていたこともあり、激怒して強引に家康へ陳情に出向こうとした。
藤広もこれに怒り、晴信を焚きつけ幕府にペソアの捕縛とポルトガル船への報復攻撃を願い出させた。
晴信は藤広が家康に伽羅木の調達を命じられるも苦戦しているのを知っており、それを出し抜こうと考え、同時に伽羅木の調達を引き受けた。
幕府は許可を与え、監視役として岡本大八(おかもと・だいはち)を送ると、身の危険を感じたペソアは船に引き上げ帰国しようとした。
晴信はそこを船団で襲撃し、4日4晩の戦いの末にペソアは船を爆破し自決した。
以後、ポルトガルとの交易は2年間途絶えた。
晴信はかねてより龍造寺家に奪われた旧領の回復を望んでおり、今回の功績でそれが叶うと期待を寄せていた。
一方で伽羅木の件で面目を潰された藤広との間は険悪になり、藤広はポルトガル船との交易が再開されると有馬家が従来用いていたのとは別の取引先を使い始めた。
さらに藤広に「船を一隻沈めるのに4日も掛けるとは手ぬるい」と笑われ、晴信は「次はお前を沈めてやる」と憤った。
こうした情勢につけ込み岡本大八は晴信に「家康側近の本多正純(ほんだ・まさずみ)に仲介を頼み旧領を回復させる」と持ちかけ、賄賂を要求した。
晴信は6千両もの大金を支払ったが一向に沙汰が無いため正純に直談判に赴いたところ、大八の詐欺が発覚した。
拷問された大八は詐欺を認め、さらに「晴信は藤広の殺害を企んでいる」と以前の発言を採り上げた。
尋問を受けた晴信は潔くそれを認め、改易と流罪を命じられ、大八は火刑に処された。
2ヶ月後、晴信は改めて切腹を命じられた。
キリシタン側の資料では自害を禁じられているため家臣の手で斬首されたと伝わる。享年46。
嫡子の直純は家康の娘婿で、父から離れていたこともありお咎め無しとなり、家督を継ぎ有馬家は幕末まで存続した。
また長谷川藤広は妹が家康の側室で、海外貿易を一手に引き受ける幕府の重鎮ということもあり処罰されていない。
多数のキリシタンを匿う有馬家の改易を好機と、大八の処刑と同日に幕府はキリスト教の禁教令を発した。
翌年にはバテレン追放令に発展し、高山右近(たかやま・うこん)ら有力大名、家康の寵愛を受けたジュリアおたあすら追放となった。
後に島原を治めた松倉重政(まつくら・しげまさ)らは苛烈なキリシタン弾圧により島原の乱を引き起こしたが、そもそもの契機となったのはこの岡本大八事件であるとも言えるだろう。
※アイコンは趙雲
立花宗茂(たちばな・むねしげ)
豊後の人(1567~1642)
大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の長男。はじめは高橋統虎(むねとら)と名乗る。
1581年、同じく男子のなかった大友家の重臣・立花道雪(たちばな・どうせつ)こと戸次鑑連(べっき・あきつら)は、やむなく娘の立花誾千代に家督を継がせていたが、宗茂を養嗣子に迎え入れたいと申し出た。
紹運は長男を養子に出すことを渋ったが、父にも等しい道雪の頼みを断り切れず、誾千代の娘婿となり立花家を継いだ。
しかし誾千代とは不仲だったとされ、子供にも恵まれず、道雪の死後には別居状態となったという。
宗茂は二人の父に劣らず勇猛で若くして多くの武功を立てた。
だが1585年、道雪が病死し、紹運もまた島津家の大軍に城を囲まれた末に玉砕を遂げると、大友家の命運は風前の灯となった。
だが紹運の決死の防戦により時間を稼いだ結果、豊臣秀吉率いる九州征伐軍が間に合い、島津軍は撃破された。
この時、宗茂は先鋒として多くの城を落とし、秀吉に「その忠義、鎮西(九州)一。その剛勇、鎮西一」と讃えられ筑後柳川に13万石を与えられた。
1587年、佐々成政(さっさ・なりまさ)の治める肥後で国人衆の隈部親永(くまべ・ちかなが)が大規模な一揆を起こした。
成政は独力で鎮圧できず、秀吉に援軍を要請するとともに、付近の大名にも救援を呼びかけた。
それに応じた宗茂は1千2百の兵を率いて駆けつけ、ある時は奇襲を仕掛け、またある時は乱戦の中で自ら槍を振るい敵将の首を挙げと、目覚ましい活躍を見せた。
また援軍に現れた小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)を義父とし、その弟で養子の小早川秀包(ひでかね)と義兄弟の契りを結んだという。
隈部親永ら一族12人は捕らえられ、宗茂に預けられた。本来なら処刑のところを、武士の名誉を守るため家臣12名と果たし合いをさせ、最後に切腹させる配慮を見せ秀吉を感服させた。
秀吉には目を掛けられ、豊臣姓を許された他、小田原征伐の際には諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したという。
1592年からの文禄の役では、小早川隆景の指揮下で秀包とともに奮戦し「立花家の兵3千は他家の兵1万に匹敵する」と讃えられた。
1600年、関ヶ原の戦いを前に徳川家康から莫大な恩賞で誘われたが「秀吉公の恩を忘れるくらいなら死を選ぶ」と拒絶し、家臣も西軍に勝ち目は無いと進言したが宗茂は「勝敗にこだわらず」と意に介さず、秀包ら九州勢とともに大津城攻めに加わった。
しかし守る京極高次(きょうごく・たかつぐ)は5~10倍とされる西軍を相手に頑強に抵抗し、7日間の足止めに成功した。
その間に関ヶ原の本戦は終結し、宗茂はやむなく大坂城に引き上げた。西軍の名目上の大将を務める毛利輝元(もうり・てるもと)に籠城戦を進言するも、輝元は家康に降伏してしまい、宗茂も撤退した。
その途上、父の仇である島津義弘と同行した。家臣は仇討ちの好機と勧めたが宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」とむしろ島津軍の護衛をさせ、義弘は感謝した。
また柳川に帰り着いた時、別居中の誾千代が出迎えたという。
国許でも戦が起こっており、西軍は黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂(なべしま・なおしげ)らの大軍を相手に劣勢だった。
宗茂は果敢に抗戦したが文禄・慶長の役で友軍だった官兵衛、清正らに説得され開城した。その際には彼を慕う領民が徹底抗戦を呼びかけたものの、戦火に巻き込みたくないと宗茂は断ったという。
改易された宗茂は浪人となり、仕官の誘いも全て断ったため、清正から客将として招き入れられた。
しかしそこも間もなく離れ、江戸に上がり本多忠勝の庇護を受けた。
1604年、忠勝は家康に推挙し、さらに徳川秀忠の御伽衆となり1万石を得て大名に復帰した。1610年には3万5千石に上りこの頃に「宗茂」と名乗り始めたという。
1614年、大坂の陣を前に家康は宗茂が西軍に加わるのを恐れ、懸命の説得の末、徳川秀忠の参謀につけた。宗茂の予測は常に正しく勝利に大いに貢献した。
1620年、旧領の筑後柳川10万石に復帰した。関ヶ原の敗戦後に改易されるも大名に復帰した者は数名いるが、旧領に返り咲いたのは宗茂ただ一人である。
だが晩年は三代将軍・徳川家光に絶大な信頼を受け側近くに仕えたため、柳川に帰ることはめったに無かった。
1637年、島原の乱では総大将の松平信綱(まつだいら・のぶつな)を往時と変わらぬ戦術眼で補佐した。有馬城攻めでは71歳にして一番乗りを果たし「武神再来」とうたわれた。
最後に一花咲かせると翌年に隠居し、甥で養嗣子の立花忠茂(ただしげ)に家督を譲った。誾千代の没後に二人の正室を迎えたがとうとう実子には恵まれなかった。
1642年、江戸で76歳で没した。戒名には異例のことながらあまりに高名だったため宗茂の名がそのまま使われたという。
~~完璧超人・立花宗茂~~
宗茂は戦国最強の男を選ぶならば確実に名前の上がる一人である。
生涯を通じて敗戦はほぼ皆無。剣術は丸目長恵(まるめ・ながよし)からタイ捨流の、弓術は日置流の免許皆伝を受け、自らも抜刀術の流派を開いた。
武芸だけではなく茶道、連歌、書道、香道から狂言、能、笛、舞からはては蹴鞠や料理まで修め、上は旧領に復帰されるほど幕府から信頼され、下は家臣はもちろんのこと領民からも慕われる人格者でもあった。
立花道雪、高橋紹運という九州で一、二を争う名将の父らに劣らぬ、いやむしろ二人の長所を併せ持ったような、文武両道全てに優れた人物である。
有吉立行(ありよし・たつゆき)
京の人?(1558~1607)
細川家の家老。
幼い頃から細川家に仕えた。細川忠興(ほそかわ・ただおき)が少年の折、立行は彼を肩車して川を渡ろうとした。
ところが川は深く、立行は頭まで水に浸かってしまった。忠興はあわてたものの立行は川を渡り切り、無事に岸に下ろすやいなや昏倒した。
周囲の者が腹を踏んで水を吐き出させると、どうにか息を吹き返した。立行は愚鈍だと蔑まされていたが、忠興は幼心に只者ではないと感じ入ったという。
長じると立行は頭の冴えを見せ始め、家老として重んじられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは遠征に出た忠興の留守を預かり、攻め寄せた大友義統(おおとも・よしむね)の軍を撃破した。
戦後、忠興が戦の様子を尋ねると、同じく家老の松井康之(まつい・やすゆき)は事細かに語って聞かせたが、立行は何も言わなかった。
二人が退出すると忠興は「戦場で周囲の様子を事細かに見ているのは集中できていない証拠だ。立行は流石である」とむしろ立行を評価したという。
鍋島直茂(なべしま・なおしげ)
肥前の人(1538~1618)
肥前の大名・龍造寺家の重臣から下克上せずに大名へと上り詰めた異色の戦国大名。
龍造寺家の当主・龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)の従弟にあたり、また隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)が直茂の父に再嫁し義弟にもなり、大友家との戦いでは多くの献策をして貢献したため隆信からは絶大な信頼を受けた。
1578年、隆信が隠居し嫡子の龍造寺政家(まさいえ)に家督を譲ると、直茂は後見役を任された。
だが1581年に筑後を制圧すると、直茂は筑後の統治に専念するようになり、これは増長した隆信に疎まれたとも、生涯で何度となく裏切りにあってきた隆信が疑心暗鬼にかられたためともされる。
1584年、沖田畷の戦いで島津軍に圧倒的な兵力差を覆され、隆信が戦死すると、直茂は政家を補佐し龍造寺家の家名存続に努めた。
やむなく島津家には降伏したものの、その前に隆信の首級を返還しようという申し出を拒絶し、いまだ意気盛んなところを見せたため、龍造寺家の面目を保ったという。
表面上は島津家に恭順しつつも、裏では大勢力を築く豊臣秀吉とよしみを通じ、九州征伐を成功させたため、秀吉は影の立役者として直茂を激賞し、病弱かつ惰弱な政家に代わり国政を担うように命じた。
文禄の役で龍造寺軍を率いて活躍すると、家臣団も直茂を支持するようになり、政家との間には不仲が噂された。
1600年、関ヶ原の戦いでは嫡子の鍋島勝茂(かつしげ)は西軍についたものの、東軍の勝利を予測した直茂はまず尾張方面の穀物を買い占めて徳川家康に献上し、さらに本戦が始まる前に勝茂の率いる本隊を西軍から離脱させた。
そして九州では自ら兵を率いて西軍に味方した諸大名を攻撃して回ったため、戦後に本領安堵された。
政家は早くに隠居し、わずか5歳の龍造寺高房(たかふさ)が家督を継いでいたが、秀吉の命により直茂が実質的に龍造寺家を率いていた。
高房は長じるとこれに不満を抱き、徳川幕府に実権の回復を求めたが、幕府は直茂・勝茂父子の働きと忠誠を重視し、また隆信の弟らも直茂を支持したため認められなかった。
1607年、高房は妻(直茂の養女である)を殺し無理心中を図った。直茂は「龍造寺家に最大限の敬意を払ってきたのになんの当てつけか」と政家を糾弾し、高房が傷がもとで亡くなると、心痛からか後を追うように政家も没してしまった。
直茂は以来、龍造寺家の反発を恐れて影響力を弱め、結局、自ら藩主の座につくことはなかった。
1618年、直茂は81歳で没した。
耳にできた腫瘍からの激痛に苦しんだ末の悶死とされ、さらに勝茂の子も幼くして死ぬとこれは高房の呪いであると噂を呼び、世に言う「鍋島家化け猫騒動」が創造されるに及んだという。
高橋紹運(たかはし・じょううん)
豊後の人(1548~1586)
大友家の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男。初名は吉弘鎮理(しげまさ)。
13歳で初陣を飾り、1567年には反乱を起こした高橋鑑種(たかはし・あきたね)を父や兄とともに討伐した。
1569年、反乱の罪で家督を剥奪された高橋鑑種に代わり、主君の大友宗麟(おおとも・そうりん)の命で高橋家を継ぎ、高橋鎮種(しげたね)と改名し岩屋城・宝満城を与えられた。
その後は筑前・筑後方面の指揮を執る立花道雪(たちばな・どうせつ)のもとで数々の戦に参陣した。
1578年、大友宗麟は鎮種・道雪の反対を押し切り日向へ侵攻するも、耳川の戦いで島津家に大敗を喫し、鎮種の兄・吉弘鎮信(しげのぶ)ら多くの重臣を失った。
これにより鎮種と対峙していた龍造寺・筑紫・秋月家ら反大友勢力は一気に攻勢に転じ、宗麟の主力も島津家を相手に防戦一方となり、鎮種・道雪は孤立した。
だが同年に剃髪し高橋紹運と号した鎮種らは、少ない兵力でたびたび敵を打ち破った。
1581年、実子のいない道雪は、紹運の長男・高橋統虎(むねとら)を養嗣子にもらいたいと願い出た。
嫡子でしかも大器と見込んでいた統虎を譲れないとはじめは紹運も渋ったが、父にも等しい道雪の再三の願いを断りきれず、やむなく受け入れた。この時、紹運は統虎に脇差しを渡すと「もし道雪殿と私が戦になったら、お前はこれで私を斬れ」と言ったという。
統虎は道雪の一人娘で家督を継いでいた立花誾千代の婿養子となり、後に家督を譲られ立花宗茂と改名した。
1584年、沖田畷の戦いで島津軍に敗れ龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死すると、当主を失った龍造寺家は島津家に降り、島津家はますます勢いづいた。
それでも紹運・道雪は小勢ながらも1日で60キロを踏破する強行軍での奇襲などで、3倍近い敵勢力を破り次々と城を落としていった。
しかし1585年、道雪が陣中で病死すると士気が低下し、筑紫家の反撃により宝満城を落とされた。
筑紫広門(つくし・ひろかど)の娘を次男の正室に迎えて和睦し、岩屋城へ引き上げたものの翌1586年、島津軍5万に城を包囲された。
対する紹運の兵はたった763人。島津軍は「キリスト教に狂い人心を惑わす大友家など見捨てよ」と降伏を呼びかけたが、紹運は「主家が隆盛している時に忠勤に励む者は多いが、衰退した時に一命を賭けて尽くす者は稀だ。貴殿は島津家が衰退したら命を惜しむのか。武家に生まれて恩や仁義を忘れる者は鳥獣にも劣る」と勧告をはねつけ、島津軍からも感嘆の声が上がったという。
高橋軍からの脱走者は一人もなく、半月にわたり籠城を続け、ついに全員が玉砕を遂げた。
最期は紹運自身が敵中へ突撃し、17人もの兵を斬り伏せたと伝わる。
島津軍を率いた島津忠長(しまづ・ただなが)は紹運の首を前にすると地面に正座し「類まれなる名将を殺してしまった。紹運殿は戦神の化身のようで、その戦功と武勲は日本に並ぶ者がない。敵でなければ最高の友になれたであろう」と諸将とともに涙し手を合わせたという。
だが島津軍も死傷者3千もの大損害を出し、軍の再配備などで大友領への侵攻は遅れ、大友家の滅亡前に豊臣秀吉軍が九州に到着してしまった。秀吉は九州制圧後、宗茂を呼び寄せると「この下克上の乱世にこれほどの忠勇の士が九州にいたとは思わなかった。紹運殿こそ乱世に咲いた華である」と激賞した。
紹運の執念は結果として大友家を救ったのである。
立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)
豊後の人?(1569~1602)
大友家の重臣・戸次鑑連(べっき・あきつら)こと立花道雪(どうせつ)の一人娘。
1575年、道雪は大友家から甥の子である戸次統連(べっき・むねつら)への家督相続を命じられたが、統連の才を危ぶみそれを拒否すると、重臣の薦野増時(こもの・ますとき)を養子に迎え家督を譲ろうと考えた。だが他ならぬ増時が「安易な相続は立花家を滅ぼす」と諫言したため、道雪は娘に家督を譲ることを決意した。
大友家の許諾を得ると、正式な手続きを踏み、わずか7歳の誾千代が戦国でも稀な女城主となった。
1581年、同じく大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の子・宗茂を婿に迎え、翌年に誾千代・宗茂は立花姓を名乗った。
父の道雪も立花姓を望んだが、大友家は過去に二度に渡り離反した立花家を嫌ったのか、それを許さなかった。
1584年に道雪が没し、1586年に義父・紹運も戦死。1587年に大友家が豊臣秀吉に降伏すると、宗茂は柳川城への移転を命じられた。
だが誾千代はそれに同行せず、宮永に居を構えた。その理由は「夫婦不和」と記されている。
1600年、関ヶ原の戦いで宗茂らは近江大津城を1万5千(一説に4万弱とも)の兵で攻めるも、わずか3千で籠城した京極高次(きょうごく・たかつぐ)に足止めされ、本戦に間に合わなかった。
宗茂は敗れた西軍の総大将・毛利輝元(もうり・てるもと)に大坂城での籠城戦を進言するも却下されると、兵をまとめて九州に帰った。
その際には誾千代が出迎えたとされ、夫婦はなおも別居中ながら、和解していたと思われる。
宗茂は東軍についた鍋島・黒田・加藤家を相手に抵抗を続けたが、上方に残した家臣が徳川家康の身上安堵の許諾を持ち帰ったため、ようやく降伏した。
なおこの際、宗茂の居城に迫ろうとしていた加藤清正が「このまま進むと宮永を通るが、そこは立花道雪の娘が治め、領民もよく従っているから戦になるだろう」と聞かされ、あわてて道を変えたという逸話が伝わっている。
宗茂は改易され浪人となったが、各地を転々とした末、家康に認められ大名に返り咲いた。関ヶ原で西軍につき改易されたものの大名に復した者は数名いるが、もとの領地の大名に戻ったのは宗茂だけである。
誾千代はそれに先立ち、34歳で病没した。宗茂は後に誾千代の菩提を弔う寺を建立したという。
宗茂との間に子はなく、道雪の血統は途絶えた。宗茂も側室は数人抱えたがいずれも子供をもうけられず、やむなく養子に跡を継がせており、不仲だけが子をなせなかった原因ではないのかも知れない。
「雷を斬った」という逸話をも持つ戦国屈指の名将・立花道雪の娘のため、俗説の域を出ないが誾千代の武勇伝は多く伝わっている。
50人の腰元を鉄砲隊として鍛え上げ、戦のはじめは彼女らの一斉射で幕を開けた。
宗茂が文禄・慶長の役で不在の折、誾千代は豊臣秀吉に呼ばれ手込めにされかけたが、腰元たちに鉄砲を構えて護衛させたため秀吉は手出しできなかった。
関ヶ原の戦いでは自ら甲冑を着込んで宗茂の代わりに留守兵の指揮をとった、などがよく知られている。