三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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伊東義祐(いとう・よしすけ)
日向の人(1512~1585)
日向の大名。
1533年、8代当主の兄が没すると、叔父の伊東祐武(すけたけ)が反乱し居城を占拠した。
義祐と弟の伊東祐吉(すけよし)は京に落ち延びようとしたが、家臣に説得されて祐武と対決し、自害に追い込み城も奪回した。
家督ははじめ祐吉が継ぎ義祐は出家したが、わずか3年後に祐吉も病没したため1536年、義祐が家督を継いだ。
地方大名としては異例の高位である従三位に叙せられ、嫡子が夭折すると再び出家し「三位入道」を称した。
義祐は日向南部の飫肥をめぐって島津家と激しい争奪戦を繰り広げた。
1560年、島津家は幕府に調停を求め、13代将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)は和睦を命じたが義祐は聞き入れなかった。
幕府から伊勢貞孝(いせ・さだたか)が派遣されると義祐は伊東家の5代当主が8代将軍・足利義政から賜った「日向・薩摩・大隅の者は伊東家が治める。ただし島津家は除く」というあまりにも伊東家に都合が良すぎる書状を示した。
当時の幕府が用いていない言葉遣いが散見され、伊勢貞孝は偽書だと思ったが確証はなく、やむを得ず飫肥を幕府の直轄領に定め停戦を命じた。
だが義祐はそれをも無視して飫肥に侵攻を続けた。
1568年、義祐は2万の大軍で飫肥城を包囲し援軍も退けると、島津貴久(しまづ・たかひさ)はたまらず和睦を申し入れ飫肥はついに伊東家の手に落ちた。
伊東家の最盛期を築いた義祐は奢侈に溺れ、本拠地の佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるまでに発展したが、一方で政治・軍事をおろそかにした家中は次第に衰退していった。
1572年、島津貴久が死去するとそれまで優勢に侵攻を進めていた真幸院を一息に落とすべく、伊東・相良の連合軍は島津方の加久藤城を囲んだ。
だが3千の連合軍は島津義弘の率いるわずか3百の寡兵に大敗し、多くの重臣を討たれた。
この敗戦を気に島津家の反撃が始まり、次々と日向国内の支城を落とされていった。
だがこの頃には義祐の周囲には彼の機嫌を取るだけの佞臣がはびこっており、救援要請は義祐の側近らによって握りつぶされ、伊東軍は連携もできないまま各個撃破された。
1577年には日向北部の土持親成(つちもと・ちかしげ)が反旗を翻し、南から攻め上がる島津家とともに伊東領を挟撃した。
ようやく事態を悟った義祐は孫の伊東義賢(いとう・よしかた)に家督を譲るなど人事の一新を図ったが後の祭りで、次々と国人衆の離反を招き、一族の者すら寝返るに及ぶと、もはや謀叛を恐れ挙兵することすらできなくなった。
義祐は日向を捨て、次男の正室の実家である大友家を頼り、三男の伊東祐兵(すけたか)らを連れ豊後へと落ち延びていった。
その途上、筆頭家老格の落合家まで裏切ったと知ると、義祐は自身の愚行を悔やみ切腹しようとしたが、家臣に止められたという。
豊後へと続く山中を雪中行軍で越え、吹雪や島津家や山賊に襲われ、150名程度いた一行は半分にまで減った。なお一行には後の伊東マンショも含まれている。
大友宗麟(おおとも・そうりん)は義祐を迎え入れ、自身の野望もあり日向に大軍を派遣したが、耳川の戦いで島津家に大敗し、逆に大友家衰亡のきっかけにさえなった。
義祐らは敗戦の責任者のように見られ立場を失い、また宗麟の息子・大友義統(よしむね)が祐兵夫人に懸想したため、義祐・祐兵ら20名は大友家を離れた。
祐兵は羽柴秀吉に仕えていた一族のつてをたどり秀吉に仕えたが、義祐は「流浪の身たりとも、三位入道が羽柴ごときに追従できるか」と拒絶し、供の者を一人連れ中国地方を漫遊の旅に出た。
途中でお供もまいて一人で気ままに旅していたが、やがて病を得ると祐兵のいる堺へ向かった。
だがその途上の船内で危篤状態に陥り、面倒に思った船頭によって砂浜に捨て置かれた。
たまたま通りがかった祐兵夫人に保護され、祐兵の屋敷にはたどり着いたものの、7日あまりの闘病の末に73歳で没した。
義祐は悲惨な最期を遂げたが、祐兵は秀吉のもとで活躍し、1588年には旧領の飫肥を与えられ大名に復帰した。
関ヶ原の戦いでは時勢を見抜いて東軍につき所領を安堵され、伊東家は飫肥5万石の藩主として幕末まで続いた。