三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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杉重矩(すぎ・しげのり)
周防の人?(??~1553)
大内家の臣。豊前の守護代。
初名は重信(しげのぶ)。その後1539年に重矩に改名し、没前の1553年に重将(しげまさ)に改めた。
もともと陶晴賢(すえ・はるかた)とは犬猿の仲だったが、1551年の晴賢の謀叛(大寧寺の変)ではそれに味方して主君の大内義隆(おおうち・よしたか)を殺した。
理由には諸説あるが、義隆が文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用したことへの反発や、その武任が晴賢との暗闘の末に出奔するも、帰参した際に「相良武任申状」を記し弁明した中で「晴賢や杉重矩が謀叛を企んでいる」と讒言したため、それを恨んだとも言われる。
大寧寺の変の後、重矩と晴賢は再び対立した。
重矩は主君への裏切りと、さらに義隆が歓待していた公卿たちも同時に殺したことを悔やみ蟄居していたが、晴賢は先の「相良武任申状」を手に入れると、その中に重矩が義隆へ「陶晴賢は謀叛を企んでいるから殺すべき」と進言していた記述を見つけ激怒した。
1553年、晴賢軍に撃破された重矩は逃亡するも、進退窮まって自害した。
晴賢は重矩を義隆殺害の首謀者として責任転嫁し、首を晒した。
この謀略は奏功し、重矩を晴賢と対立しながら義隆を殺すために寝返った悪人、と評する史料も存在するという。
その後、重矩の子の杉重輔(しげすけ)は報復の機会をうかがい、1555年に厳島の戦いで毛利元就が晴賢を討ち取ると、晴賢の居城である富田若山城を急襲し、晴賢の嫡男や石見守護代の問田隆盛(といだ・たかもり)らを殺した。
晴賢の義弟で重臣の内藤隆世(ないとう・たかよ)は、大内家を継いでいた大内義長(よしなが)の制止を無視して陶家の残党とともに重輔を攻撃し、首尾よく討ち取ったものの、義隆が発展させ「西の京」とまでうたわれた山口の街は炎上した。
この混乱に乗じて毛利元就は周防・長門へ進撃し、大内義長も内藤隆世も自害へ追い込まれ、大内家は滅亡したのであった。