三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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相良武任(さがら・たけとう)
周防の人?(1498~1551)
大内家の臣。
大内義隆(おおうち・よしたか)に信頼され右筆や奉行を務め、1537年には評定衆に列した。
1541年、陶隆房(すえ・たかふさ 後の陶晴賢)が尼子家の本拠地である出雲への攻撃を唱えるとそれに反対し、激しく対立した。
この月山富田城の戦いが敗戦に終わると、長男が討ち死にした大内義隆は勢力拡大への意欲を失い、武任ら文治派が家中を支配した。
1545年、隆房ら武断派の工作により失脚した武任は九州へ逃げ、出家して隠棲した。
だが1548年、義隆の要請を受けて大内家に復帰。隆房との暗闘は収まらず、1550年には暗殺を図られるも、事前に察知して義隆に密告し事なきを得た。
武任は美貌で知られた娘を、隆房の長男と縁組させる懐柔策を提案したがすげなく断られ、同年に再び出奔した。
翌1551年1月、筑前で守護代の杉興連(すぎ・おきつら)に身柄を拘束され、大内家に戻された。その際に「相良武任申状」を記し義隆に弁明したが、その中で隆房と、同じ武断派の杉重矩(すぎ・しげのり)、内藤興盛(ないとう・おきもり)らが謀叛を企てていると讒言したため決裂し、8月に武任は三度出奔した。
その10日後、陶隆房は杉重矩とともに大内家に反旗を翻し(大寧寺の変)義隆を暗殺。武任も隆房の腹心・野上房忠(のがみ・ふさただ)に捕らえられ、杉興連ともに殺された。享年54。(杉興連には戦死や義隆とともに自害した等の諸説ある)
後世での評価は二分され「大内義隆記」では「よろず才覚は人にすぐれ」と手腕を高く評価する一方で「老臣らを讒訴する奸臣」と評され、また立花道雪(たちばな・どうせつ)は「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」と述べている。