三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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結城秀康(ゆうき・ひでやす)
遠江の人(1574~1607)
徳川家康の次男。
母は家康の正室・築山殿(つきやま)の女中で、懐妊を知った家康は妻の勘気を恐れ、重臣の本多重次(ほんだ・しげつぐ)に預けた。
双子に生まれたが、当時は双子は忌み嫌われており、また母の身分が低いことから家康に疎まれ、父と初対面したのも3歳の時、それも不憫に思った長兄の松平信康(まつだいら・のぶやす)のはからいによるという。
1579年、その信康が父との不仲から自害を命じられ、秀康は後継者の筆頭に躍り出た。
しかし1584年、小牧・長久手の戦い後に豊臣秀吉と和睦した際、家康は人質として(表向きは養子)秀康を差し出したため、三男の徳川秀忠が後継者となった。同年に元服し、秀吉と家康から一字ずつもらい秀康と名乗った。
武勇に優れ14歳で初陣を果たすと、九州征伐、小田原征伐などで次々と武功を立てた。
しかし1589年、秀吉に待望の実子が生まれると立場を失い、実父の家康が関東に移封されると、徳川家への加増の名目で名門・結城晴朝(はるとも)の養子に出され、下総の結城領11万石を継いだ。
1600年、関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝への牽制役となり、その功績により一門衆1位の加増を受け越前北ノ庄67万石に転封された。
だが1607年、34歳の若さで没した。死因とされる梅毒を患い、晩年は鼻が欠けていたという。
武将としては一流で、勇猛ながら謙虚な人柄でも知られ、家康にその豪胆さを感心されることもあった。
旗印として出生時に母をかくまった本多重次の「本」の字をあしらった物を用いており、またその図案を作ったのは家康との対面の場を設けた長兄の信康だという。受けた恩を忘れない秀康の律儀さがしのばれる。
家康が後継者を誰にすべきか重臣に問うた時、実際に跡を継いだ徳川秀忠よりもその名を挙げるものは多かったという。
秀忠が家督を継いだ時、秀康は伏見城代を務めていた。出雲阿国を招き歌舞伎を見物すると「天下に幾千万の女はあれど、天下一の女は阿国だろう。私は天下一の男になるどころか、彼女にすら及ばない」と嘆息したといい、その内には野心を秘めていたことがうかがえる。
死後、家督は長男の忠直(ただなお)が継いだが、間もなく松平姓に復してしまった。
結城家が途絶えるのを恐れた結城晴朝は幕府に必死に訴え出て秀康の五男・直基(なおもと)を養子にもらい受けたものの、晴朝の死後に直基も松平姓に戻し、結局は途絶えてしまった。
また双子の兄弟とされる永見貞愛(ながみ・さだちか)は夭折したことにされ、母の実家の永見家に預けられ、長じると伯父の神職を継ぎ、秀康よりも2年早い1605年に没している。