三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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三浦按針(みうら・あんじん)
イングランドの人(1564~1620)
本名はウィリアム・アダムス。
イングランド南東部のケント州ジリンガムに生まれ、船員だった父を亡くすと12歳でロンドンに移り住み船大工に弟子入りした。
しかし造船術よりも航海術に興味を抱き、奉公を終えると15歳で海軍に入隊した。
やがて家庭を築き一男一女をもうけたが、軍を離れ商会の航海士となり多忙を極めたため、家にはほとんど寄り付かなかったという。
1598年、オランダから極東を目指す船団が航海士を探していると聞き、興味を覚えたアダムスは弟とともにそれに応募した。
しかし航海は船団5隻のうち2隻が他国に拿捕され、1隻は途中で帰還、もう1隻は沈没と惨憺たる結果で、アダムスの乗ったリーフデ号も1600年に豊後の黒島に漂着し、途上で赤痢や壊血病、インディオの襲撃により110人の乗組員のうち86人が脱落し、弟もインディオに殺害されていた。
乗組員は衰弱し自力で上陸すらできず、長崎奉行の寺沢広高(てらさわ・ひろたか)はアダムスらの身柄を拘束し武器を奪うと、豊臣家に判断を仰いだ。
五大老筆頭の徳川家康が裁定を下すこととなり、重体で身動きの取れない船長に代わりアダムスやヤン=ヨーステンらが大坂に護送された。
オランダやイングランドと敵対するイエズス会の宣教師は彼らを海賊と断定し処刑を求めていたため、家康もはじめは警戒したが、直接引見すると、アダムスらの理路整然とした説明と堂々たる態度に感心し、居城のある江戸に招いた。
アダムスは帰国を望んだが、彼らを気に入った家康は俸禄や家を与えるなど慰留に努め、外国使節との通訳や助言役に用い、数学や航海術など知識の提供を求めた。
やがて帰国を諦めたアダムスは、1602年頃に家康の御用商人でもあった馬込勘解由(まごめ・かげゆ)の娘をめとり、一男一女をもうけた。
さらにアダムスの船大工だった過去を知ると家康は西洋式の帆船の建造を求めた。
造船の経験は浅く、当初は難色を示したが断り切れず、大型船の建造に成功し、このガレオン船は1610年に上総に漂着した前フィリピン総督ドン・ロドリゴに貸し出され、彼を無事にエスパーニャ(スペイン)に送り届けたという。
この功績により家康はアダムスを旗本に取り立て、相模逸見に所領を与え帯刀を許し、アダムスは異国人ながら武士となった。
家康はあわせて所領のある三浦半島から「三浦」姓を、水先案内人という意味の「按針」という名の日本名を与えた。
1613年、東インド会社の交易船が来航し、按針は家康への仲介や通訳を務めた。
交易船が帰国する際、家康からもイングランドからも按針に帰国の許可が下りたが、船長のジョン・セーリスは何事も日本式を強要する按針を厭い、按針も年若く横暴なセーリスと馬が合わなかったため、それを見送り日本に残った。
1616年、家康が没すると徳川幕府は鎖国政策を強めたため、按針は天文官を務めるだけの不遇な日々を送り、1620年に55歳で没した。
日本でもうけた息子のジョセフが三浦按針の名とともに武士の身分を受け継ぎ、鎖国後も交易を許されたという。
時は下り1982年、按針の所領があった横須賀市は、その縁から生まれ故郷のジリンガム市と姉妹都市提携を結んでいる。