三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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水野勝成(みずの・かつしげ)
三河の人(1564~1651)
徳川家。全国を放浪し各地に伝承を残す豪傑風の人物で、後に初代福山藩主となった。
母は本願寺の法主・教如(きょうにょ)の妹とされる。徳川家康の母は勝成の伯母にあたり、自身も二代将軍・徳川秀忠の乳兄弟だったが、父の水野忠重(ただしげ)が織田信長に引き抜かれはじめは織田家に仕えた。
1580年、父とともに武田家の高天神城を攻め初陣を飾った。その際に城内に祀られた天神像を強奪し、本尊として身につけたという。
1582年、父のもとを離れ徳川軍に加わり北条家と戦った。勝成は抜け駆けした徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)に激怒し「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と言い放ち、敵陣に突入し多くの首級を挙げたという。
1584年、小牧・長久手の戦いでは織田信雄(のぶかつ)に仕える父に従い、羽柴秀吉軍と戦った。
その際、勝成は結膜炎で眼を痛め兜をかぶれず、鉢巻を巻いていた。忠重が「お前は兜を小便壺にしたのか」とからかうと勝成は激昂し、兜なぞ不要とばかりにそのまま敵陣に突入し一番首を挙げた。また敵将で「鬼武蔵」とうたわれた森長可(もり・ながよし)を討ち取ったのも水野家の兵である。
だが忠重は息子の抜け駆けに怒り、さらに同年、自分の不行状を父に密告したかどで忠重の部下を斬り殺したため、ついに奉公構(他家への仕官禁止処分。死罪に次ぐ重罰)を出し勝成を勘当した。
勝成は京に流れると寺で寝泊まりし、無頼漢と交わっては喧嘩に明け暮れ、相手を殺すことも多々あった。
1585年、四国征伐で仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の軍に加わり手柄を立て、秀吉から知行を与えられたものの、間もなく出奔し改名すると中国地方に潜伏した。
秀吉に刺客まで放たれたというから相当の怒りを買ったと思われるが、詳細は不明である。
1587年、佐々成政(さっさ・なりまさ)に招かれ肥後国人一揆の鎮圧で活躍したが(一揆の首謀者・隈部親永(くまべ・ちかなが)を討ったのも勝成とされる)成政は単独で鎮圧できなかった責任を取り切腹。
隣国を治める黒田官兵衛に仕えたものの、官兵衛の子・黒田長政(ながまさ)とともに大坂に船で向かう途上でまたも出奔した。長政に操舵の手伝いを命じられ憤慨したとも、秀吉に会うのを嫌がったともされる。
その後は小西行長(こにし・ゆきなが)、加藤清正、立花宗茂ら九州各地の大名のもとを転々としたがいずれも長続きしなかった。
放浪生活を再開した勝成は、各地に様々な伝承を残した後、1594年に備中の三村親成(みむら・ちかなり)に仕えた。
だがここでも茶坊主を無礼討ちして出奔したり、出戻るもすぐに世話役の娘に手を付け子供を産ませたりと問題行動を繰り返した。(その娘・お登久(とく)は正室として迎えた)
1599年、秀吉が没すると勝成は妻子を残し単身で徳川家に帰参し、父とも15年ぶりに和解した。
だが翌1600年、関ヶ原の戦い直前に父の忠重は、石田三成の密命を帯びた加賀井重望(かがのい・しげもち)に西軍に誘われるも、拒絶したため暗殺された。
勝成は遺領の三河刈谷3万石を継ぎ、関ヶ原本戦には加わらなかったが西軍の拠点・大垣城を攻め落とした。
その際に加賀井重望の息子を殺して父の仇討ちをし、また守将の福原長堯(ふくはら・ながたか)が三成から与えられた名刀を奪い、勝成の日向守の官位にちなみ「名物日向正宗」と名付け、これは現存し国宝にも指定されている。なお日向守は明智光秀の没後、名乗る者がいなかったが勝成はむしろ自らそれを望んだという。
関ヶ原で敗れた三成、小西行長らは道端に晒され、諸大名は無視するか侮蔑の言葉を浴びせたが、勝成は彼らに編笠をかぶせてやり、旧主の行長の恩に報いた。
1608年、ようやく備中に残してきた妻子を迎え入れ、息子の水野勝俊(かつとし)は徳川秀忠に仕えるようになった。
しかし妻・お登久は1634年に幕府から人質を求められた際、他に身寄りがなかったため人質に差し出し、嫁ぎ先を探してやった後に別の正室を新たに迎えている。
1615年、大坂夏の陣では勝成の気性をよく知る家康は「昔のように自ら先頭に立って戦うな」と厳命したが、当然のようにそれを無視して自ら偵察まで行い、かつてともに黒田家に仕えた後藤又兵衛(ごとう・またべえ)の軍に先陣切って襲いかかり一番槍をつけた。
後藤軍を破るとさらに渡辺糺(わたなべ・ただす)、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)も撃破し、兼相を討ち取った。
快進撃の水野軍に対し大坂方からは真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)、明石全登(あかし・てるずみ)ら主力が現れにらみ合いになると、勝成は隣に陣を構える伊達政宗にも進軍を促したが、被害を最小限に留めたい政宗は弾薬不足や負傷者多数と偽り二度にわたりこれを拒否。三度目には政宗自ら勝成のもとに出向き断ったため、やむなく勝成もこれ以上の進撃をあきらめた。
翌日、真田幸村が家康の本陣に斬り込み乱戦になると、勝成は茶臼山を落としてその後方を遮断。さらに真田軍の背後を襲い家康の窮地を救った。
また最期が判然としない明石全登の死亡説の一つは水野軍が討ち取ったとされ、勝成も自ら明石軍から2つの首級を挙げており、水野軍にはかの宮本武蔵もいたという。
勝成は大坂夏の陣において戦功第二と激賞されたものの、大和郡山に3万石の加増に留まった。
約束を破り先頭に立って戦ったことに家康が激怒した、石高に関わりなく大坂に近く反乱の懸念の強い要地を任された、など諸説あり、また水野家の伝承では石高の低さに激昂した勝成を秀忠は「家康の隠居後に10万石与える」となだめたとされる。
1619年、福島正則が改易されると代わって勝成に備後福山10万石が与えられた。
備後には勝成の放浪時代の伝承が多く残っており、地の利があると考えられたと見られる。
すでに新規の築城は禁じられていたが、特例として認められ勝成は福山城を築いた。これは近世城郭として築かれた最後の城で、また10万石の城としては破格の巨城である。
勝成は旧主の三村親成を家老として迎え入れるなどかつての人脈を活かし、画期的な施策を多く打ち出し福山を発展させた。
目付役を置かず法度も設けなかったが家臣の統制も堅く、隣国の池田光政(いけだ・みつまさ)は「良将の中の良将」と勝成を讃えた。
徳川家からの信頼も厚く、他大名の家中の騒動を調停したり、将軍の不興を買った者を預けられたりもした。
1638年、島原の乱では九州以外の大名で唯一、幕府から直々に参戦を要請された。
75歳の勝成は「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱(まつだいら・のぶつな)、戸田氏鉄(とだ・うじかね)と並ぶ軍師格に置かれ、包囲陣の最後尾に布陣したものの、総攻撃が始まるとすかさず前に出て(さすがに老齢の勝成は後方に残ったが)水野勝俊が本丸の一番乗りを競った。
翌年、家督を勝俊に譲ったが意欲は衰えず、隠居料の1万石は藩政につぎ込み、80歳にして仏門修行を始めた。87歳の時に鉄砲を撃ち的に命中させて周囲の者を驚かせたと伝わる。
1651年、88歳で没した。徳川二十八神将として日光東照宮にも配祀され、水野家は5代目が2歳で夭折しいったん途絶えたものの、勝成の名を惜しみ勝成の孫が代わって藩主となり存続した。