三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
※アイコンは曹植
松平信康(まつだいら・のぶやす)
三河の人(1559~1579)
徳川家康の長男。本来は徳川姓だが江戸時代に「徳川姓は将軍家と御三家に限る」と制定されたため松平姓に格下げとなった。
幼少期は父と同じく今川家の人質として育ったが、1560年、桶狭間の戦いの後、徳川軍の捕虜となった今川一族の者と交換で家康のもとに戻った。
1567年、同盟する織田信長の娘・徳姫(とく)と、ともに9歳で結婚した。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城は信康に与えられた。
同年7月、元服し信長と家康から一字ずつもらい受け信康と名乗った。
勇猛で知られ15歳で初陣を飾ると、1575年、長篠の戦いでは17歳にして一軍を率い、武田家との戦いで武功を重ねた。
しかし1579年、母の築山殿(つきやま)とともに自害を命じられ21歳で没した。
切腹の理由は諸説あり、最も知られているのが家康との不仲と、母の武田家との内通疑惑である。
1579年、かねてより姑の築山殿と不仲で、夫とも不和になった徳姫は父の信長へ夫の不行状と姑が武田家に内通していることを訴えた。
信長が徳姫の使者を務めた酒井忠次(さかい・ただつぐ)を問いただすと、全く釈明せずに事実を認めたため、信長は信康の切腹を家康に求めた、とするものである。
しかし信康がしばしば農民や周囲の者を無益に殺した、とするのは風説に過ぎず、また築山殿は今川義元の姪にあたり、今川家から独立した家康と不仲だったのは事実ながら、武田家と内通したとするのも無理がある。
長男を死に追いやっておきながら、酒井忠次はその後も徳川家の重臣として遇されているのも不自然である。
近年の研究では、この件に信長は関わっておらず、単純に家康と信康父子の不仲が原因と目されている。
不仲の末に信康が謀叛を企んだため、信康の岳父で同盟相手の信長に相談したところ「家康の思い通りにせよ」と答えられ、家康の判断により妻と息子に自害を命じたのが事の経緯であろうか。
余談だが後年、六男の松平忠輝(ただてる)を引見した家康は、あまりに信康の幼い頃に酷似しているのに驚き、極端なほど忠輝を遠ざけている。
一方で1600年、関ヶ原の戦いで三男の徳川秀忠が遅参し本戦に間に合わなかった時、家康は激怒するとともに勇猛だった長男を思い出し「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と語ったという。
なお関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の命日である。