三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大友義統(おおとも・よしむね)
豊後の人(1558~1610)
豊後の大名・大友宗麟(そうりん)の嫡子。
1576年、宗麟の隠居により家督を継いだが、父も依然として実権を握り、二頭政治を布いた。
1578年、耳川の戦いで島津家に大敗すると、家中に内紛が起こり、義統と宗麟も対立しそれに拍車を掛けた。
寡兵ながら優勢に戦いを進めていた立花道雪(たちばな・どうせつ)も死去し、肥前では龍造寺家が台頭。筑前・筑後の国人衆は次々と離反し、大友家の勢力は著しく後退した。
1586年、島津軍が豊後に攻め寄せると大友家は瓦解を始めた。立花道雪と並び称された高橋紹運(たかはし・じょううん)は玉砕し、豊臣家から派遣された遠征軍も、軍監を務めた仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策で惨敗。
戦意喪失した義統は奮闘を続ける宗麟や重臣を尻目に居城を捨て後方に逃れてしまった。
だが翌1587年、高橋紹運の命に代えた足止めが功を奏し、豊臣秀吉自ら率いる遠征軍が大友家の滅亡直前に間に合った。
島津家は秀吉に降伏し、大友家は豊後を安堵された。島津家の降伏を前に宗麟は病没したが、義統は秀吉と馬が合い、一字拝領し大友吉統(よしむね)と改名した。
小田原征伐や文禄の役にも参戦し、1592年には嫡子の大友義乗(よしのり)に家督を譲った。
その後も父と同じように実権を握り続け、自ら朝鮮での戦いも続けていたが1593年、友軍の小西行長(こにし・ゆきなが)が戦死したという誤報を信じて撤退したところ、秀吉の逆鱗に触れあえなく改易された。
吉統は徳川家、佐竹家、毛利家などの下を転々とし、1598年に秀吉が没するとようやく赦免され幽閉状態を脱した。
その後は豊臣家に仕え1600年、関ヶ原の戦いでは周囲の反対を押し切り、西軍に参加すると旧領の豊後へ進軍した。
各地に散らばっていた大友家の旧臣が集結し兵力は膨れ上がったが、豊前の黒田如水(官兵衛)が迎撃に出ると、かつて秀吉の軍師を務めた智謀に翻弄され、大友軍は連敗。
吉統は剃髪すると妹婿で黒田家の重臣・母里友信(もり・とものぶ)を頼り降伏した。
吉統は常陸に流され、1610年に同地で没した。
晩年の事績は不詳だが、亡くなるまで家中に伝わる膨大な史料を「大友家文書録」としてまとめ上げたため、滅亡した大名家としては異例なことに詳細な歴史が現在に伝わっている。
嫡子の大友義乗ははじめ秀吉の小姓だったが、父の改易後に徳川家に仕えていたため、関ヶ原の戦い後も処罰されず旗本として存続した。
義乗が没するとその息子も早逝し嫡流は途絶えてしまったが、大友家は高家(貴族)として再興され、幕末まで続いた。
吉統は大友家を滅ぼした元凶としてしばしば無能に描かれるが、史料でも優柔不断で酒癖、女癖が悪く、またキリスト教に傾倒するあまり神社仏閣を破壊し僧侶を迫害したと記され、さらに大友家衰退のきっかけとなった耳川の戦いを主導したのも彼であり、少なくとも有能な人物とは思えない。