忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―大村純忠  日本初のキリシタン大名

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―大村純忠  日本初のキリシタン大名


※アイコンは笮融
 
大村純忠(おおむら・すみただ)
肥前の人(1533~1587)

肥前の大名。日本初のキリシタン大名で長崎を発展させたことで著名。

有馬家の次男に生まれたが、母の実家の大村家に男子がなかったため6歳の時に養嗣子となった。
18歳で家督を継いだが、純忠の養子縁組の後に生まれ、他家に養子に出された大村家の庶長子である後藤貴明(ごとう・たかあき)との間には禍根が残った。

1562年、キリスト教に興味を抱き、同時に財政改革を図るため純忠はポルトガルの貿易船に横瀬浦の港を提供した。
海外貿易で国庫を潤し、イエズス会から洗礼も受けた純忠はキリスト教を大いに奨励し、領民を教化し各地から信者を招いた結果、最盛期には実に6万人、日本国内の信者の約半数を領内に集めた。
しかしあまりに熱が入りすぎ、領内の寺社や墓地を破壊し、僧侶や改宗しない領民の殺害に及び、武器と引き換えに海外へ他宗の領民を奴隷として輸出するなどしたため大きな反発も招いた。
後藤貴明はそれら不平分子とともに反乱を起こすと横瀬浦を焼き払ったが、純忠は代わって長崎をポルトガル人に提供した。
当時は寒村に過ぎなかった長崎はこれを機に現在も続く大都市へと発展していく。

1572年、貴明率いる1千5百の兵に居城を囲まれたが、非戦闘員を含めても80名、士官はたった7名の小勢で純忠は援軍が駆けつけるまで耐え抜いた。
1578年には長崎を龍造寺家に攻められたが、この時にはポルトガル人が協力し撃退に成功した。だが結局は長男を除く3人の息子を人質に取られ、龍造寺家に従属した。
しかし1584年、沖田畷の戦いで当主の龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死すると独立を果たした。純忠も参戦していたが、敵方についた実家の有馬軍を相手に戦意はなく、空砲を撃っていたため、隆信を討ち取った島津家は大村軍に追撃を掛けなかった。
また1582年には同じキリシタン大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)らと協力し天正少年使節団を欧州へ派遣している。

1587年、豊臣秀吉の九州征伐に協力し、大村家は本領安堵された。
純忠はすでに死の床にあり、死の前日に捕虜に恩赦を与え、飼っていた小鳥も放そうとした。
だがその体力すら無かったため侍女に命じると、彼女は小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は激怒した。
すぐに怒りは神の意志に反すると悔やみ、純忠は立派な帯を侍女に与え「小鳥はデウス様が作られたものであるから愛情を持って欲しい」と述べたという。
享年55。バテレン追放令が出される前月の死であった。

家督は嫡子の大村喜前(よしあき)が継いだが、相次ぐ禁止令に逆らえず1602年にはキリスト教を棄て、一転して信徒を激しく弾圧した。
それを恨まれ1616年、キリスト教徒によって喜前が毒殺されると、まるで呪いでも掛けられたように以降も当主が早逝し続け一時は血脈が途絶え改易も危ぶまれたが、他家から養嗣子を迎えると安定を迎え、大村家は幕末まで存続した。

拍手[2回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R