三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
戸次鑑連(べっき・あきつら)
豊後の人(1513~1585)
大友家の重臣にして戦国屈指の名将。立花道雪(たちばな・どうせつ)の通称で著名であり本人も立花姓を望んだものの、最後まで得られず、戸次道雪が正確な名乗りである。
幼くして母を失い、父も重病のため継母(大友家の重臣・臼杵鑑速(うすき・あきはや)の姉)に育てられた。
元服前の14歳にして病床の父に代わり自ら志願して初陣を飾り、同年に父が没すると家督を継いだ。
1548年、夏の炎天下のおり、夕涼みしていた大木に雷が落ち半身不随(左足麻痺)となった。その際とっさに刀を抜いて雷光を切ったため絶命を免れ、以来、愛刀を「雷切」と名づけたという。
だがその後も多くの史料に自ら騎馬を乗り付け奮戦した記録が残っており、真偽は怪しまれるが、かの上杉謙信も生まれつき左足が不自由ながら騎乗技術に優れたとされ、多少の誇張はあったにしろ、鑑連の足に障害があっても不思議はない。
1550年、大友家の当主・大友義鑑(おおとも・よしあき)が嫡子の大友義鎮(よししげ)の廃嫡を企んだ。それに反発した義鎮派の家臣が先手を打って襲撃し、義鑑を殺す「二階崩れの変」が起こった。
この時、鑑連は義鎮を補佐し、家督相続に貢献したため、以降は義鎮の厚い信頼を受け筆頭格の重臣として活躍する。
大小100数十戦に出陣し、采配を振るった戦はほぼ無敗。その名将ぶりは遠く甲斐の武田信玄にも届き、信玄は屏風に鑑連と勇猛で知られるその家臣・由布惟信(ゆふ・これのぶ)の名を記し、面会を願ったという。
1562年、義鎮が出家し大友宗麟(そうりん)を名乗ると、鑑連もそれにならって出家し戸次道雪と号した。
道雪とは「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで尽くし抜くのが本懐である」という意味だとされる。
事実、宗麟との主従関係は良好で、宗麟は道雪を右腕と頼み、道雪もはばからずに諫言を繰り返した。
ある時、宗麟は凶暴な猿を飼いそれを家臣にけしかけては喜んだ。家臣が辟易していると道雪は宗麟の前に出て、すかさず猿を鉄扇で叩き殺し「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諌めたため、宗麟は大いに反省した。
宗麟は若い頃、酒色にふけっており、道雪が訪ねても諫言に来たと煙たがって会おうとしなかった。
すると道雪は京から美人の踊り子を呼び寄せ、毎日宴会を催しては遊びふけった。
話を聞いた宗麟が道雪の家を訪ねると、道雪は「たとえ折檻を受けても、主君の過ちを正すのが家臣の勤めである。我が身を恐れて自分さえよければ、他人はどうでもよいというのは卑怯である。自分の命は露ほども惜しくは無い。主君が外聞を失う事が何より惜しい」と諫言した。道雪の機転と誠意に胸を打たれた宗麟は行状を改め、また道雪の呼んだ踊り子により「鶴崎踊り」が現在もなお伝わっている。
1567年、道雪がかつて討った秋月家の残党が、毛利家の援助を得て筑前で蜂起した。
それに呼応し大友家の重臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)と筑後の国人衆・筑紫広門(つくし・ひろかど)が反旗を翻し、筑前・筑後は反大友で一致を見た。
道雪は叔父の臼杵鑑速とともに出陣し、まず筑紫広門を降した。
毛利家は筑前に毛利軍が上陸したという噂を流し、大友軍が同様した隙を秋月種実(あきづき・たねざね)はついたものの、道雪は奇襲を予期しておりこれを撃退した。さらに同日のうちに夜襲を仕掛けてくると看破し、兵に万全の準備をさせたまま待ち伏せた。
だが臼杵軍が夜襲に動揺し同士討ちを始めたため、道雪は敗軍をまとめ撤退した。この時、多くの一族や重臣を失ったという。
大友軍の敗走を聞きさらに反乱が相次ぎ、立花家は毛利家に寝返り、従属していた龍造寺家も不穏な動きを見せ始めた。
戦線は崩壊するかに見えたが、道雪が奮闘し4ヶ月足らずで立花・高橋・秋月・毛利軍を次々と連破し、鎮圧してみせた。
1569年、大友軍5万は残る龍造寺家の討伐に赴いた。
龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)は降伏を申し出たが、道雪はこれを一蹴し次々と城を落とした。
隆信の要請により毛利家の吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が救援に現れると、道雪はすかさず龍造寺家と和睦し、毛利軍と対峙した。
道雪は自ら考案した早合(弾帯)を駆使した「長尾懸かり」戦法で毛利軍を苦しめたが、兵力は拮抗し次第に戦線は膠着した。
そこで大友家の吉岡長増(よしおか・ながます)はかつて毛利家が滅ぼした大内家の残党を旧領の周防に上陸させ、さらに同じく毛利家に滅ぼされた尼子家の残党・山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)を援助し蜂起させた。
後方で反乱の相次いだ毛利軍は北九州から撤退し、10年以上に及んだ筑前争奪戦は大友家の勝利に終わった。
翌1570年から道雪は再び龍造寺家の討伐に着手した。この頃から騎馬ではなく家臣に担がせた輿に乗って指揮を取るようになったが、精力はいささかも衰えず、無数の戦に出陣しては軍功を立て続けた。
道雪は筑前守護となり、実質的に統治を任された。さらに立花家の家督を譲られ、立花姓を求めたが、宗麟は過去に何度も反乱した立花家を厭い、許可しなかったという。
1575年、宗麟は戸次家の家督を継いでいた道雪の甥の子・戸次統連(むねつら)に立花家の家督を譲るよう命じた。
だが道雪は統連の才覚を危ぶみ、家臣の薦野増時(こもの・ますとき)を養子に迎え立花家を任せようと考えた。
しかし他ならぬ増時が安易な相続に異を唱えたため、道雪は宗麟の許可を得て一人娘の誾千代に家督を譲った。
立花誾千代は戦国でも稀な女城主となり、1581年には道雪と双璧をなす大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の子・高橋統虎(むねとら)を婿養子に迎え、家督を継承した。(統虎は後の立花宗茂である)
1578年、宗麟は道雪の反対を押し切り島津家の討伐を命じたが、道雪を欠いた大友軍は耳川の戦いで大敗を喫し、多くの重臣を失った。
勢いづいた島津家は攻勢に転じ、1584年には龍造寺隆信を討ち取った。
道雪は高橋紹運らとともに筑後の戦線維持に努めたが、龍造寺家も降した島津軍の兵力は圧倒的であり、苦戦を強いられた。
そして1585年、陣中で病を得ると看病の甲斐なく73歳で没した。
道雪は「遺体に甲冑を着け、高良山の好己岳に、柳川の方を向けて埋めよ。さもなくば我が魂魄は必ず祟りをなすだろう」と遺言した。
だが立花宗茂は義父の遺体を戦場に捨て置くのが忍びなく、居城に連れ帰るよう命じた。すると由布惟信は「遺言に背くならばここで切腹し道雪様にお供つかまつる」と言い、他の者も次々と同調した。
これに対し原尻宮内(はらじり・くない)が「切腹するなら宗茂様のために切腹せよ」とたしなめると、由布惟信も考え直し「祟りがあるならば由布一族が受けよう」と言い、立花軍は道雪の遺体を連れ帰ったという。
道雪は家臣思いで、その細かな心配りを物語る逸話が無数に知られている。
かつて家督を譲られかけた薦野増時は、恩賞として道雪の墓の隣に自分の墓を建てる許しを得て、後に立花家が一時取り潰されると黒田家に仕えたものの、死後には道雪と同じ墓所に葬られた。
一方で軍規違反には厳しく、脱走し家に逃げ帰った家臣は、それを迎え入れた親も同罪であるとし、親子ともども処刑させたという。
大友宗麟(おおとも・そうりん)
豊後の人(1530~1587)
豊後の大名。宗麟は法号で本名は大友義鎮(よししげ)。
大友家は鎌倉時代から続く名家で、宗麟は20代当主・大友義鑑(よしあき)の嫡男として生まれた。
だが父は宗麟の異母弟に家督を譲ろうと考え、宗麟の傅役と結託し廃嫡を目論んだ。
1550年、宗麟を湯治に行かせるとその隙に宗麟派の粛清を図ったが、それを察知した宗麟派は逆に先制攻撃を仕掛け、義鑑を殺す「二階崩れの変」を起こした。
宗麟はそれにより家督を継ぎ、傅役には義鑑暗殺の首謀者の濡れ衣を着せ反勢力を一掃した。
1551年、中国地方に一大勢力を築いていた大内義隆(おおうち・よしたか)が重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)の謀反により没すると、宗麟は陶晴賢の申し出で弟の大友義長(よしなが)を大内家の新当主として送り込んだ。
これにより百年単位で続いていた大内家との対立は終結し、同時に宗麟は北九州を確保し、とりわけ博多を得たことで海外貿易で莫大な利益を挙げることとなった。
1554年には肥後も支配下に置いたが、父の不慮の死から旧臣には反発され、また宗麟がキリスト教に傾倒し仏教を迫害したため家中には宗教的な対立まで発生していた。
1557年、大内義長が毛利元就に敗死し大内家が滅亡すると、毛利家は北九州への侵攻を開始した。
苦戦を強いられた宗麟は豊富な資金力を活かして足利将軍家へ多大な援助をし、豊前や筑後の守護職、さらに九州探題の地位を得ると、将軍家の仲裁により毛利家との和睦を取り付けた。
1567年、尼子家を滅ぼした毛利家は和睦を破棄して再侵攻を始め、さらに豊前・筑前で反乱が相次ぎ、それに重臣の高橋鑑種(たかはし・あきたね)まで加わってしまう。
肥前では龍造寺家が台頭し窮地に立たされたが、吉岡長増(よしおか・ながます)の献策により宗麟は大内家の残党・大内輝弘(てるひろ)に大友水軍をつけ、周防に上陸させた。これにより背後を脅かされた毛利軍は九州から撤退した。
だが急場はしのいだものの大友家の衰退は明らかで、龍造寺家との戦いで弟の大友親貞(ちかさだ)が戦死し、不利な条件で和睦を結ばされ、龍造寺家は以降、一気に勢力を拡大した。
さらに薩摩の島津家が日向へ侵攻すると宗麟は大軍を送り込み阻止を試みたが、耳川の戦いで大敗北を喫し多くの重臣を討たれた。
この一件には毛利家に亡命していた足利義昭(あしかが・よしあき)が関与しているともされ、毛利家の上洛を促すため九州の諸勢力に働きかけ大友家を包囲殲滅し、後顧の憂いを断とうとしたという。
大友家は外では龍造寺・島津・秋月家に領土を侵食され、内では家督を譲った嫡子の大友義統(よしむね)とも、宗麟が隠居後も権力を握ったために対立していた。
宗麟は毛利家を攻める織田信長に接近し島津家との和睦を仲介してもらったものの、間もなく信長が本能寺の変で討たれ、外交戦にも失敗してしまう。
1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死した隙をつき、立花道雪(たちばな・どうせつ)に命じて筑後を奪回したものの、翌年に道雪が没し、重臣の高橋紹運(じょううん)も島津家と戦い敗死した。
もはや大友家の力だけでは島津家に対抗できないと悟った宗麟は、豊臣秀吉に臣従し援軍を得たものの、戸次川の戦いで豊臣軍は仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により壊滅し、ついに宗麟は臼杵城に追い詰められた。
貿易で輸入した戦国初とされるキャノン砲「国崩し」の威力でどうにか落城を免れると、豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)率いる10万の九州征伐軍が到着し、さらに秀吉も自ら10万の後詰めを率いて現れ、一転して島津軍は連敗を喫した。
そして1587年、島津家が秀吉に降伏する直前、宗麟は58歳で没した。チフスが死因と思われる。
九州制圧後、大友義統は豊後一国を安堵された。宗麟には日向を与えられる予定だったが、辞退したともその前に没したとも言われる。
なお義統はその後、文禄の役で誤報に騙され敵前逃亡した罪で改易され、関ヶ原の戦いでは再起を賭けて西軍につくも黒田如水に大敗し、ついに常陸へ流罪となり、大友家は大名としては滅亡したものの、徳川幕府の高家旗本として存続した。
宗麟は一代で北九州ほぼ全域を制し大友家の最大勢力を築き、海外貿易で巨万の富を集めたものの、末期には明や朝鮮との関係は切れ、利益も次第に博多の豪商に奪われ大した効果は得られなかった。
また書画や茶器の収集に没頭し、財政を傾け暗愚な義統にさえ注意される有様だった。
海外貿易への道を開いたキリスト教への信仰も過激化し、領内の神社仏閣を取り上げては土地を家臣への恩賞に回すだけでは飽きたらず、仏像や経文まで破棄しては僧侶を迫害し、仏教徒が大勢を占める領民や家臣の反発を呼んだという。(もっともこれは義統が主導したとする説が有力)
宗麟は大友家の最盛期を築いた一方で、大友家の衰亡をも招いたと言えるだろう。
幼い頃は寺に預けられていたが、父と祖父が謀反の疑いをかけられて誅殺されたため、曾祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじ・いえかね)につれられて国を逃げ出した。
筑後の蒲池鑑盛(かまち・あきもり)の援助を受け仇を討ったが、老齢の家兼は間もなく亡くなり、わずか17歳の隆信は跡を譲られた。
主君である少弐冬尚(しょうに・ふゆひさ)を追放し、龍造寺本家の当主が死ぬとその未亡人をめとり、19歳にして龍造寺本家を継いだ。
だが後ろ盾としていた大内義隆(おおうち・よしたか)が陶晴賢(すえ・はるかた)の反乱で殺されると、家臣の反発を抑えられず、追放されて再び蒲池鑑盛のもとに身を寄せた。
しかし不屈の隆信は、蒲池家の援助で返り咲くと、次々と周囲の敵を降し東肥前の占有に成功した。
急速に勢力を拡大した隆信は、大友宗麟(おおとも・そうりん)ににらまれ、6万もの大軍に攻められたが、軍師・鍋島直茂(なべしま・なおしげ)の策略でそれを撃退し、有利な条件で和睦を結んだ。
強大な大友家には従属していたものの、武力を背景に活動を黙認させ、1578年には肥前の統一を果たした。
さらに大友家が耳川の戦いで島津に大敗すると、大友勢力を一気に切り崩し、龍造寺家の支配は五ヶ国に及んだ。
しかし何度も国を逐われ、また急速な勢力拡大で不穏分子を増やしていた隆信は疑心暗鬼にかられ、恩人・蒲池鑑盛の息子で、自分の娘婿でもある蒲池鎮並(かまち・しげなみ)を暗殺するなど、粛清を多く行い、家臣の反発を招いた。
1584年、有馬晴信(ありま・はるのぶ)の独立を機に島原半島の諸城が一斉に反旗を翻した。有馬は島津家の援助を得て沖田畷で隆信と戦い、龍造寺軍は6万もの数を擁しながら、島津家久(しまづ・いえひさ)の策謀に屈し、隆信も討ち取られた。
肥満のため馬に乗れなかった隆信の輿は、信望を失っていた家臣に放り出され、隆信は一人とり残されての最期だったという。
意外に遅めの20歳で初陣を飾ると、自ら前線で槍を振るうためたびたび重傷を負ったが、大隅・日向・肥後の攻略に貢献し、島津家は一気に勢力を拡大した。
九州三強の一角・龍造寺家を破り、残すは大友家だけとなったが、織田信長のあとを受け天下統一を目指す豊臣秀吉の遠征軍が、大友の援軍として現れた。
豊臣軍の圧倒的な兵力を前に抗す術はなく、1587年に島津家は降伏した。
文禄・慶長の役では朝鮮に出兵したが、国元で梅北国兼(うめきた・くにかね)が一揆を起こしたため参陣が遅れ、また義弘の嫡子・島津久保(ひさやす)が陣中で没するなど不運がつづく。
しかし1598年、泗川の戦いでは7000の兵で明・朝鮮の連合軍を打ち破り4万もの首級をあげ、退却戦では朝鮮水軍の大将・李舜臣(り・しゅんしん)を討ち取り「鬼島津」と恐れられた。
1600年、関ヶ原の戦いに際しては親豊臣派の義弘と、反豊臣派の義久との間で対立が起き、義弘はわずか1000の兵力しか動員できなかった。
豊臣家に降伏したおりに、本国の薩摩だけではなく、大隅・日向の領有も認めるよう奔走してくれた石田三成に恩義を感じていた義弘は西軍に身を投じた。
しかしわずかな兵しか持たない義弘を西軍の首脳陣は冷遇し、前哨戦で島津軍を置き去りにしたり、献策を退けたりしたため、義弘は戦意を失った。
いざ戦が始まっても島津軍は動こうとせず、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りで勝敗が決すると、小勢の島津軍は逃げ場を失っていた。
義弘は切腹を覚悟したが、甥の島津豊久(とよひさ)の説得で翻意し、前方に突撃し敵中突破での退却を決意した。
死に物狂いの島津軍の勢いを恐れ、目の前にいた福島正則(ふくしま・まさのり)は道を空けた。追撃した井伊直政(いい・なおまさ)は深手を負い、のちにそれがもとで没した。
島津軍は、退却する際に部隊の一部を残し全滅するまで防戦させ、それを繰り返して本隊だけを逃げ延びさせる「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法をとり、島津豊久らの犠牲で退却に成功し「島津の退き口」と讃えられた。
日頃から家臣を大切にしていた義弘だからこそ成せる業であった。
薩摩に戻った義弘は防備を固める一方で、必死に和睦の道を探り、自身を追撃した井伊直政に仲介を求めた。
義弘の手勢しか出さなかった島津家にはまだ大軍が健在であり、島津軍の恐ろしさを身を持って知る井伊直政や福島正則らの口添えもあって、決戦を終えたばかりの徳川家康は不安定な情勢をかんがみ和睦を認めた。
1619年、義弘は生涯を閉じた。晩年は起居もままならなかったが、家臣が法螺貝を吹いたり、鬨の声を上げると、とたんに正気を取り戻したという。
家康は島津家を最後まで恐れ、遺言では自分の遺体を薩摩に向けて葬るよう命じた。その危惧は明治維新のおりに現実のものとなり、薩摩志士が江戸幕府を倒すのであった。
後継者となる前は蹴鞠と酒色におぼれ、たびたび父から注意を受けていた。だが当主になることを自覚してからは心を入れ替え、父とともに朝鮮出兵で軍功を立てた。
1599年、いち早く秀吉、家康に取り入り権勢を強めていた筆頭家老の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)を暗殺した。
忠棟の子・伊集院忠真(いじゅういん・ただざね)は一時反乱を起こし、和解後も不穏な動きを見せていたため、1600年の関ヶ原の戦いに際し、島津家は伊集院家を警戒し(また西軍につくか東軍につくかで義弘と義久の意見が分かれてもいた)義弘の率いるわずか800の兵しか送れなかった。
その後、伊集院忠真(忠恒の妹婿でもある)は忠恒によって暗殺された。遺された姪(忠真の娘)はさすがに不憫に思ったのか、自身の養女とし、家康の甥に嫁がせた。
関ヶ原後、父は西軍についたものの、兵力の大半は国許に温存しており、当主の島津義久は家康に恭順の姿勢を見せたため、本領安堵となった。
同年に家督を継いだが、1619年頃まで父が実権を握っていた。しかしこの間にも琉球の占領、明との密貿易、鹿児島城の築城など国力の増強を主導し、また妻子を江戸に送り参勤交代の先駆けとなるなど、幕府内の地位も向上させた。
一方で個人としては妻(義久の娘)との間に子供ができなかったため、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の子を養子に取ろうとして後継者問題を起こし、対立した義久の家老を暗殺したり(数年後に家老の一族も皆殺しにした)、義久が江戸に赴いた隙をつき幕府から妻の離縁の許可を得たり、義久が没するとすかさず妻を別居させ、8人の側室を囲うとまるで当てつけのように25年間で33人もの子をもうけ(ちなみに子供は分家の当主に据えたり重臣の養子や妻に押し付けたりとうまく活用している)、妻が亡くなるとその女中に「妻が亡くなり悲しい。袖が涙で濡れてしまうかと言われればそれほどではないが(意訳)」という短歌をわざわざ送りつけ、妻の墓も建てない(なお現在は建てられているが島津家当主の墓の中で忠恒夫妻の墓だけが並んでいない)など鬼畜の所業が目立った。
そのためネット上では知将として名高い同名の叔父を引き合いに「悪い方の家久」「島津悪久」の呼称が定着している。
しかし大坂の陣での真田幸村の奮闘を称賛し著名な「真田日本一の兵」の評を残したり、雨の中さらされた長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)に自分がずぶ濡れになるのもいとわず笠を与えるなど、武士に対しては礼をわきまえていたようではある。
1638年、64歳で没した。酷薄な人柄だったが殉死者も9名出ている。