島津豊久(しまづ・とよひさ)
薩摩の人(1570~1600)
島津家久(いえひさ)の子。家久は同時期に二人いるが、俗に言う「良い家久」のほうである。島津義弘の甥に当たる。
1584年、15歳で初陣を飾った。厳しい戦いになるため父の家久は薩摩に戻るよう命じたが、豊久は「薩摩にいても父上が危機に陥れば駆けつけるのに、敵を前にして引き上げたら物笑いになるでしょう」と命令を拒否して残り、首級を上げたという。
1587年、父が急死し(豊臣家による暗殺とも言われる)あとを継いだ。二人の息子を亡くしていた伯父の島津義弘に我が子同然にかわいがられ、朝鮮征伐・関ヶ原の戦いに従軍した。
しかし関ヶ原で味方した西軍は大敗し、島津軍は退路を失った。切腹を覚悟した義弘を、豊久は説得して翻意させると、前方の敵中を突破して退却するという、史上類を見ない作戦をとった。
豊久は義弘の影武者となり戦死したが、その犠牲で義弘は無事に窮地を脱したのだった。