三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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主導権を握った氏康は、1554年に今川・武田家と三国同盟を締結し、関東での戦いに専念することとなった。
山内上杉家の当主で関東管領の上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)を上野(こうずけ)から追い出すと、憲政は同族の上杉謙信に援助を乞うた。
上杉軍は関東に攻め寄せ、周辺の大名もそれに呼応し10万もの大軍にふくれ上がったため、氏康は小田原城に立てこもった。さすがの大軍も戦国一の名城とうたわれた小田原城の防備を破れず、また氏康も各地の補給線を絶つ作戦をとったため、長期の遠征を嫌った佐竹義重(さたけ・よししげ)ら連合軍の大名は撤退し、さらに武田の同盟軍が上杉領に侵攻したため、包囲は長くは続かなかった。
武田と上杉はそのまま川中島の戦いになだれ込み、北条軍は隙をついて上杉軍に奪われた領土を奪還した。
その後も一進一退の攻防が続いたが、1568年、今川家の衰退を受け、武田家は三国同盟を破棄し、今川家の本拠地・駿河に侵攻した。
北条家は三河の徳川家康と同盟して対抗したが、西に武田、北に上杉、東に里見と三方を敵に囲まれた窮地に陥った。
そこで氏康は上杉家と同盟する奇策をとった。それにより上杉軍の侵攻は止まったものの、上杉方に与していた佐竹義重らがこぞって武田家に寝返ったため、窮地を脱することはできなかった。
1569年、武田軍は小田原城を包囲した。包囲は4日で解かれたものの、その後も劣勢は続き、駿河は武田家の手に落ちた。
1571年、氏康は中風と見られる病を得て没した。戦国随一と称される民政の手腕に長けた氏康の死を惜しみ、領民たちは慟哭したという。
その後、徳川・織田との戦いに焦点を絞った武田家は北条家と和睦を結び、氏康の子、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の代に北条家の関東支配は最広域に及んだが、豊臣秀吉による天下統一の波に抗するほどの力はなく、1590年に北条家は滅亡し、秀吉の天下統一は果たされた。