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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―龍造寺隆信  肥前の熊

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戦国列伝―龍造寺隆信  肥前の熊



龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)
肥前の人(1529~1584)


~経歴~
「肥前の熊」と呼ばれた九州三強の一人。

幼い頃は寺に預けられていたが、父と祖父が謀反の疑いをかけられて誅殺されたため、曾祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじ・いえかね)につれられて国を逃げ出した。
筑後の蒲池鑑盛(かまち・あきもり)の援助を受け仇を討ったが、老齢の家兼は間もなく亡くなり、わずか17歳の隆信は跡を譲られた。
主君である少弐冬尚(しょうに・ふゆひさ)を追放し、龍造寺本家の当主が死ぬとその未亡人をめとり、19歳にして龍造寺本家を継いだ。
だが後ろ盾としていた大内義隆(おおうち・よしたか)が陶晴賢(すえ・はるかた)の反乱で殺されると、家臣の反発を抑えられず、追放されて再び蒲池鑑盛のもとに身を寄せた。
しかし不屈の隆信は、蒲池家の援助で返り咲くと、次々と周囲の敵を降し東肥前の占有に成功した。
急速に勢力を拡大した隆信は、大友宗麟(おおとも・そうりん)ににらまれ、6万もの大軍に攻められたが、軍師・鍋島直茂(なべしま・なおしげ)の策略でそれを撃退し、有利な条件で和睦を結んだ。
強大な大友家には従属していたものの、武力を背景に活動を黙認させ、1578年には肥前の統一を果たした。

さらに大友家が耳川の戦いで島津に大敗すると、大友勢力を一気に切り崩し、龍造寺家の支配は五ヶ国に及んだ。
しかし何度も国を逐われ、また急速な勢力拡大で不穏分子を増やしていた隆信は疑心暗鬼にかられ、恩人・蒲池鑑盛の息子で、自分の娘婿でもある蒲池鎮並(かまち・しげなみ)を暗殺するなど、粛清を多く行い、家臣の反発を招いた。
1584年、有馬晴信(ありま・はるのぶ)の独立を機に島原半島の諸城が一斉に反旗を翻した。有馬は島津家の援助を得て沖田畷で隆信と戦い、龍造寺軍は6万もの数を擁しながら、島津家久(しまづ・いえひさ)の策謀に屈し、隆信も討ち取られた。
肥満のため馬に乗れなかった隆信の輿は、信望を失っていた家臣に放り出され、隆信は一人とり残されての最期だったという。

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