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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―保春院  鬼姫と呼ばれた政宗の母

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戦国列伝―保春院  鬼姫と呼ばれた政宗の母



保春院(ほしゅんいん)
本名は最上義(もがみ・よし)、保春院は出家後の名前
出羽の人(1548~1623)
 
出羽の大名・最上義守(もがみ・よしもり)の娘。伊達輝宗(だて・てるむね)に嫁ぎ、独眼竜・伊達政宗を産んだ。兄の最上義光(もがみ・よしあき)と仲むつまじく、兄妹の間で交わした書簡が多く残されている。(ちなみに義光を「よしあき」と読むとわかったのは、義にあてた手紙に平仮名でそう書かれていたからである)

1578年、伊達家が最上を攻めると、駕籠で陣中を突っ切り夫・輝宗のもとに赴き「なぜこのような情けない兄弟喧嘩をなさるのか」とたしなめ、伊達軍を撤退させた。
1585年に輝宗が畠山義継(はたけやま・よしつぐ)に暗殺されると、実権の掌握を狙った息子・政宗の陰謀ではと疑い、母子の仲は険悪になった。
さらに東北の覇権を狙う政宗は、最上家の親戚筋の大名を次々と攻め、最上義光も政宗を警戒して兵を進め、ついに1588年、伊達・最上両軍は対峙した。
しかしこの時も義が両軍の対峙する真ん中に駕籠を乗りつけると、兄の義光に停戦を迫った。伊達・最上双方に強い影響力を持つ義の意向を無視できず、80日の休戦の末に両軍は兵を引き上げた。

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとした政宗は、母の招きを受けた。その席上、義は政宗を毒殺しようとし、激怒した政宗は、母が政宗よりもかわいがり、毒殺未遂にも関与していたとされる弟の伊達小次郎(だて・こじろう)を斬り捨てた。
しかしこの事件には諸説あり、真相はよくわかっておらず、義は毒殺未遂後にも政宗と親しく手紙や贈り物のやりとりをしている。
だが1594年、政宗が朝鮮出兵で留守の折に、義は最上家へ戻った。

1600年、関ヶ原の戦いに連動し、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が最上義光を攻めると、義光は伊達政宗に援軍を要請し、義もそれに口添えした。
政宗の腹心・片倉景綱(かたくら・かげつな)らは最上と上杉を戦わせ疲弊してから動くよう進言したが、母の安否を気づかった政宗はすぐに兵を挙げた。

1622年、すでに兄・義光も亡く、改易された最上家を去った義は、政宗を頼った。
晩年の母子は和解しており、義は政宗の妻に手製の縫い物を贈るなどし、義の死後には政宗は自ら位牌を作り、保春院を建立し菩提を弔った。

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