三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとした政宗は、母の招きを受けた。その席上、義は政宗を毒殺しようとし、激怒した政宗は、母が政宗よりもかわいがり、毒殺未遂にも関与していたとされる弟の伊達小次郎(だて・こじろう)を斬り捨てた。
しかしこの事件には諸説あり、真相はよくわかっておらず、義は毒殺未遂後にも政宗と親しく手紙や贈り物のやりとりをしている。
だが1594年、政宗が朝鮮出兵で留守の折に、義は最上家へ戻った。
1600年、関ヶ原の戦いに連動し、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が最上義光を攻めると、義光は伊達政宗に援軍を要請し、義もそれに口添えした。
政宗の腹心・片倉景綱(かたくら・かげつな)らは最上と上杉を戦わせ疲弊してから動くよう進言したが、母の安否を気づかった政宗はすぐに兵を挙げた。
1622年、すでに兄・義光も亡く、改易された最上家を去った義は、政宗を頼った。
晩年の母子は和解しており、義は政宗の妻に手製の縫い物を贈るなどし、義の死後には政宗は自ら位牌を作り、保春院を建立し菩提を弔った。