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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―立花宗茂  戦国最強の男

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戦国列伝―立花宗茂  戦国最強の男


※アイコンは趙雲

立花宗茂(たちばな・むねしげ)
豊後の人(1567~1642)

大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の長男。はじめは高橋統虎(むねとら)と名乗る。
1581年、同じく男子のなかった大友家の重臣・立花道雪(たちばな・どうせつ)こと戸次鑑連(べっき・あきつら)は、やむなく娘の立花誾千代に家督を継がせていたが、宗茂を養嗣子に迎え入れたいと申し出た。
紹運は長男を養子に出すことを渋ったが、父にも等しい道雪の頼みを断り切れず、誾千代の娘婿となり立花家を継いだ。
しかし誾千代とは不仲だったとされ、子供にも恵まれず、道雪の死後には別居状態となったという。

宗茂は二人の父に劣らず勇猛で若くして多くの武功を立てた。
だが1585年、道雪が病死し、紹運もまた島津家の大軍に城を囲まれた末に玉砕を遂げると、大友家の命運は風前の灯となった。
 だが紹運の決死の防戦により時間を稼いだ結果、豊臣秀吉率いる九州征伐軍が間に合い、島津軍は撃破された。
この時、宗茂は先鋒として多くの城を落とし、秀吉に「その忠義、鎮西(九州)一。その剛勇、鎮西一」と讃えられ筑後柳川に13万石を与えられた。

1587年、佐々成政(さっさ・なりまさ)の治める肥後で国人衆の隈部親永(くまべ・ちかなが)が大規模な一揆を起こした。
成政は独力で鎮圧できず、秀吉に援軍を要請するとともに、付近の大名にも救援を呼びかけた。
それに応じた宗茂は1千2百の兵を率いて駆けつけ、ある時は奇襲を仕掛け、またある時は乱戦の中で自ら槍を振るい敵将の首を挙げと、目覚ましい活躍を見せた。
また援軍に現れた小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)を義父とし、その弟で養子の小早川秀包(ひでかね)と義兄弟の契りを結んだという。
隈部親永ら一族12人は捕らえられ、宗茂に預けられた。本来なら処刑のところを、武士の名誉を守るため家臣12名と果たし合いをさせ、最後に切腹させる配慮を見せ秀吉を感服させた。
秀吉には目を掛けられ、豊臣姓を許された他、小田原征伐の際には諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したという。
1592年からの文禄の役では、小早川隆景の指揮下で秀包とともに奮戦し「立花家の兵3千は他家の兵1万に匹敵する」と讃えられた。

1600年、関ヶ原の戦いを前に徳川家康から莫大な恩賞で誘われたが「秀吉公の恩を忘れるくらいなら死を選ぶ」と拒絶し、家臣も西軍に勝ち目は無いと進言したが宗茂は「勝敗にこだわらず」と意に介さず、秀包ら九州勢とともに大津城攻めに加わった。
しかし守る京極高次(きょうごく・たかつぐ)は5~10倍とされる西軍を相手に頑強に抵抗し、7日間の足止めに成功した。
その間に関ヶ原の本戦は終結し、宗茂はやむなく大坂城に引き上げた。西軍の名目上の大将を務める毛利輝元(もうり・てるもと)に籠城戦を進言するも、輝元は家康に降伏してしまい、宗茂も撤退した。
その途上、父の仇である島津義弘と同行した。家臣は仇討ちの好機と勧めたが宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」とむしろ島津軍の護衛をさせ、義弘は感謝した。
また柳川に帰り着いた時、別居中の誾千代が出迎えたという。

国許でも戦が起こっており、西軍は黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂(なべしま・なおしげ)らの大軍を相手に劣勢だった。
宗茂は果敢に抗戦したが文禄・慶長の役で友軍だった官兵衛、清正らに説得され開城した。その際には彼を慕う領民が徹底抗戦を呼びかけたものの、戦火に巻き込みたくないと宗茂は断ったという。
改易された宗茂は浪人となり、仕官の誘いも全て断ったため、清正から客将として招き入れられた。
しかしそこも間もなく離れ、江戸に上がり本多忠勝の庇護を受けた。
1604年、忠勝は家康に推挙し、さらに徳川秀忠の御伽衆となり1万石を得て大名に復帰した。1610年には3万5千石に上りこの頃に「宗茂」と名乗り始めたという。

1614年、大坂の陣を前に家康は宗茂が西軍に加わるのを恐れ、懸命の説得の末、徳川秀忠の参謀につけた。宗茂の予測は常に正しく勝利に大いに貢献した。
1620年、旧領の筑後柳川10万石に復帰した。関ヶ原の敗戦後に改易されるも大名に復帰した者は数名いるが、旧領に返り咲いたのは宗茂ただ一人である。
だが晩年は三代将軍・徳川家光に絶大な信頼を受け側近くに仕えたため、柳川に帰ることはめったに無かった。
1637年、島原の乱では総大将の松平信綱(まつだいら・のぶつな)を往時と変わらぬ戦術眼で補佐した。有馬城攻めでは71歳にして一番乗りを果たし「武神再来」とうたわれた。
最後に一花咲かせると翌年に隠居し、甥で養嗣子の立花忠茂(ただしげ)に家督を譲った。誾千代の没後に二人の正室を迎えたがとうとう実子には恵まれなかった。
1642年、江戸で76歳で没した。戒名には異例のことながらあまりに高名だったため宗茂の名がそのまま使われたという。


~~完璧超人・立花宗茂~~
宗茂は戦国最強の男を選ぶならば確実に名前の上がる一人である。
生涯を通じて敗戦はほぼ皆無。剣術は丸目長恵(まるめ・ながよし)からタイ捨流の、弓術は日置流の免許皆伝を受け、自らも抜刀術の流派を開いた。
武芸だけではなく茶道、連歌、書道、香道から狂言、能、笛、舞からはては蹴鞠や料理まで修め、上は旧領に復帰されるほど幕府から信頼され、下は家臣はもちろんのこと領民からも慕われる人格者でもあった。
立花道雪、高橋紹運という九州で一、二を争う名将の父らに劣らぬ、いやむしろ二人の長所を併せ持ったような、文武両道全てに優れた人物である。

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