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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―立花誾千代  雷神の愛娘

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戦国列伝―立花誾千代  雷神の愛娘



立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)
豊後の人?(1569~1602)

大友家の重臣・戸次鑑連(べっき・あきつら)こと立花道雪(どうせつ)の一人娘。
1575年、道雪は大友家から甥の子である戸次統連(べっき・むねつら)への家督相続を命じられたが、統連の才を危ぶみそれを拒否すると、重臣の薦野増時(こもの・ますとき)を養子に迎え家督を譲ろうと考えた。だが他ならぬ増時が「安易な相続は立花家を滅ぼす」と諫言したため、道雪は娘に家督を譲ることを決意した。
大友家の許諾を得ると、正式な手続きを踏み、わずか7歳の誾千代が戦国でも稀な女城主となった。
1581年、同じく大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の子・宗茂を婿に迎え、翌年に誾千代・宗茂は立花姓を名乗った。
父の道雪も立花姓を望んだが、大友家は過去に二度に渡り離反した立花家を嫌ったのか、それを許さなかった。

1584年に道雪が没し、1586年に義父・紹運も戦死。1587年に大友家が豊臣秀吉に降伏すると、宗茂は柳川城への移転を命じられた。
だが誾千代はそれに同行せず、宮永に居を構えた。その理由は「夫婦不和」と記されている。

1600年、関ヶ原の戦いで宗茂らは近江大津城を1万5千(一説に4万弱とも)の兵で攻めるも、わずか3千で籠城した京極高次(きょうごく・たかつぐ)に足止めされ、本戦に間に合わなかった。
宗茂は敗れた西軍の総大将・毛利輝元(もうり・てるもと)に大坂城での籠城戦を進言するも却下されると、兵をまとめて九州に帰った。
その際には誾千代が出迎えたとされ、夫婦はなおも別居中ながら、和解していたと思われる。
宗茂は東軍についた鍋島・黒田・加藤家を相手に抵抗を続けたが、上方に残した家臣が徳川家康の身上安堵の許諾を持ち帰ったため、ようやく降伏した。
なおこの際、宗茂の居城に迫ろうとしていた加藤清正が「このまま進むと宮永を通るが、そこは立花道雪の娘が治め、領民もよく従っているから戦になるだろう」と聞かされ、あわてて道を変えたという逸話が伝わっている。

宗茂は改易され浪人となったが、各地を転々とした末、家康に認められ大名に返り咲いた。関ヶ原で西軍につき改易されたものの大名に復した者は数名いるが、もとの領地の大名に戻ったのは宗茂だけである。

誾千代はそれに先立ち、34歳で病没した。宗茂は後に誾千代の菩提を弔う寺を建立したという。
宗茂との間に子はなく、道雪の血統は途絶えた。宗茂も側室は数人抱えたがいずれも子供をもうけられず、やむなく養子に跡を継がせており、不仲だけが子をなせなかった原因ではないのかも知れない。

「雷を斬った」という逸話をも持つ戦国屈指の名将・立花道雪の娘のため、俗説の域を出ないが誾千代の武勇伝は多く伝わっている。
50人の腰元を鉄砲隊として鍛え上げ、戦のはじめは彼女らの一斉射で幕を開けた。
宗茂が文禄・慶長の役で不在の折、誾千代は豊臣秀吉に呼ばれ手込めにされかけたが、腰元たちに鉄砲を構えて護衛させたため秀吉は手出しできなかった。
関ヶ原の戦いでは自ら甲冑を着込んで宗茂の代わりに留守兵の指揮をとった、などがよく知られている。

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