三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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高橋紹運(たかはし・じょううん)
豊後の人(1548~1586)
大友家の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男。初名は吉弘鎮理(しげまさ)。
13歳で初陣を飾り、1567年には反乱を起こした高橋鑑種(たかはし・あきたね)を父や兄とともに討伐した。
1569年、反乱の罪で家督を剥奪された高橋鑑種に代わり、主君の大友宗麟(おおとも・そうりん)の命で高橋家を継ぎ、高橋鎮種(しげたね)と改名し岩屋城・宝満城を与えられた。
その後は筑前・筑後方面の指揮を執る立花道雪(たちばな・どうせつ)のもとで数々の戦に参陣した。
1578年、大友宗麟は鎮種・道雪の反対を押し切り日向へ侵攻するも、耳川の戦いで島津家に大敗を喫し、鎮種の兄・吉弘鎮信(しげのぶ)ら多くの重臣を失った。
これにより鎮種と対峙していた龍造寺・筑紫・秋月家ら反大友勢力は一気に攻勢に転じ、宗麟の主力も島津家を相手に防戦一方となり、鎮種・道雪は孤立した。
だが同年に剃髪し高橋紹運と号した鎮種らは、少ない兵力でたびたび敵を打ち破った。
1581年、実子のいない道雪は、紹運の長男・高橋統虎(むねとら)を養嗣子にもらいたいと願い出た。
嫡子でしかも大器と見込んでいた統虎を譲れないとはじめは紹運も渋ったが、父にも等しい道雪の再三の願いを断りきれず、やむなく受け入れた。この時、紹運は統虎に脇差しを渡すと「もし道雪殿と私が戦になったら、お前はこれで私を斬れ」と言ったという。
統虎は道雪の一人娘で家督を継いでいた立花誾千代の婿養子となり、後に家督を譲られ立花宗茂と改名した。
1584年、沖田畷の戦いで島津軍に敗れ龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死すると、当主を失った龍造寺家は島津家に降り、島津家はますます勢いづいた。
それでも紹運・道雪は小勢ながらも1日で60キロを踏破する強行軍での奇襲などで、3倍近い敵勢力を破り次々と城を落としていった。
しかし1585年、道雪が陣中で病死すると士気が低下し、筑紫家の反撃により宝満城を落とされた。
筑紫広門(つくし・ひろかど)の娘を次男の正室に迎えて和睦し、岩屋城へ引き上げたものの翌1586年、島津軍5万に城を包囲された。
対する紹運の兵はたった763人。島津軍は「キリスト教に狂い人心を惑わす大友家など見捨てよ」と降伏を呼びかけたが、紹運は「主家が隆盛している時に忠勤に励む者は多いが、衰退した時に一命を賭けて尽くす者は稀だ。貴殿は島津家が衰退したら命を惜しむのか。武家に生まれて恩や仁義を忘れる者は鳥獣にも劣る」と勧告をはねつけ、島津軍からも感嘆の声が上がったという。
高橋軍からの脱走者は一人もなく、半月にわたり籠城を続け、ついに全員が玉砕を遂げた。
最期は紹運自身が敵中へ突撃し、17人もの兵を斬り伏せたと伝わる。
島津軍を率いた島津忠長(しまづ・ただなが)は紹運の首を前にすると地面に正座し「類まれなる名将を殺してしまった。紹運殿は戦神の化身のようで、その戦功と武勲は日本に並ぶ者がない。敵でなければ最高の友になれたであろう」と諸将とともに涙し手を合わせたという。
だが島津軍も死傷者3千もの大損害を出し、軍の再配備などで大友領への侵攻は遅れ、大友家の滅亡前に豊臣秀吉軍が九州に到着してしまった。秀吉は九州制圧後、宗茂を呼び寄せると「この下克上の乱世にこれほどの忠勇の士が九州にいたとは思わなかった。紹運殿こそ乱世に咲いた華である」と激賞した。
紹運の執念は結果として大友家を救ったのである。