三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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鍋島直茂(なべしま・なおしげ)
肥前の人(1538~1618)
肥前の大名・龍造寺家の重臣から下克上せずに大名へと上り詰めた異色の戦国大名。
龍造寺家の当主・龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)の従弟にあたり、また隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)が直茂の父に再嫁し義弟にもなり、大友家との戦いでは多くの献策をして貢献したため隆信からは絶大な信頼を受けた。
1578年、隆信が隠居し嫡子の龍造寺政家(まさいえ)に家督を譲ると、直茂は後見役を任された。
だが1581年に筑後を制圧すると、直茂は筑後の統治に専念するようになり、これは増長した隆信に疎まれたとも、生涯で何度となく裏切りにあってきた隆信が疑心暗鬼にかられたためともされる。
1584年、沖田畷の戦いで島津軍に圧倒的な兵力差を覆され、隆信が戦死すると、直茂は政家を補佐し龍造寺家の家名存続に努めた。
やむなく島津家には降伏したものの、その前に隆信の首級を返還しようという申し出を拒絶し、いまだ意気盛んなところを見せたため、龍造寺家の面目を保ったという。
表面上は島津家に恭順しつつも、裏では大勢力を築く豊臣秀吉とよしみを通じ、九州征伐を成功させたため、秀吉は影の立役者として直茂を激賞し、病弱かつ惰弱な政家に代わり国政を担うように命じた。
文禄の役で龍造寺軍を率いて活躍すると、家臣団も直茂を支持するようになり、政家との間には不仲が噂された。
1600年、関ヶ原の戦いでは嫡子の鍋島勝茂(かつしげ)は西軍についたものの、東軍の勝利を予測した直茂はまず尾張方面の穀物を買い占めて徳川家康に献上し、さらに本戦が始まる前に勝茂の率いる本隊を西軍から離脱させた。
そして九州では自ら兵を率いて西軍に味方した諸大名を攻撃して回ったため、戦後に本領安堵された。
政家は早くに隠居し、わずか5歳の龍造寺高房(たかふさ)が家督を継いでいたが、秀吉の命により直茂が実質的に龍造寺家を率いていた。
高房は長じるとこれに不満を抱き、徳川幕府に実権の回復を求めたが、幕府は直茂・勝茂父子の働きと忠誠を重視し、また隆信の弟らも直茂を支持したため認められなかった。
1607年、高房は妻(直茂の養女である)を殺し無理心中を図った。直茂は「龍造寺家に最大限の敬意を払ってきたのになんの当てつけか」と政家を糾弾し、高房が傷がもとで亡くなると、心痛からか後を追うように政家も没してしまった。
直茂は以来、龍造寺家の反発を恐れて影響力を弱め、結局、自ら藩主の座につくことはなかった。
1618年、直茂は81歳で没した。
耳にできた腫瘍からの激痛に苦しんだ末の悶死とされ、さらに勝茂の子も幼くして死ぬとこれは高房の呪いであると噂を呼び、世に言う「鍋島家化け猫騒動」が創造されるに及んだという。