三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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三好家。血縁に関しては諸説あり判然としない。また政康の名は誤伝で政生(まさなり)が正しいともいう。
はじめは三好長慶(ちょうけい)と同じく細川家に仕え、主君を追放し下克上した長慶とも対立したが、後に和解すると三好家の柱石として働いた。
長慶が没するとその後を継いだ三好義継(よしつぐ)の後見人の一人として台頭し、三好長逸(ながやす)、岩成友通(いわなり・ともみち)とともに「三好三人衆」と呼ばれた。
三人衆と三好家の重臣・松永久秀(まつなが・ひさひで)は将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を殺し畿内の支配権を握ったが、権力を争い対立し、三人衆は足利義栄(よしひで)を後任の将軍に担ぎ上げ、松永久秀を本拠地の大和へ追い込んだ。
だが将軍を擁立され立場を失った三好義継は、不満を抱き松永久秀のもとへ出奔した。
さらに足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)を擁立し織田信長が大軍を率い上洛を開始。三好義継と松永久秀は織田家に降伏し、反抗勢力も次々と撃破され、病弱だった足利義栄も間もなく没すると三人衆は畿内を逐われた。
荒木村重(あらき・むらしげ)の織田家への反乱と、石山本願寺の蜂起で三人衆はいったんは摂津・河内を奪回したものの、武田信玄の急死を機に信長包囲網は崩壊し、三人衆のうち岩成友通は戦死、三好長逸は敗走後に行方をくらまし、政康もまた歴史から姿を消した。
後に豊臣家に仕え、大坂夏の陣で88歳の高齢でありながら奮戦した三好清海(せいかい)なる人物が政康の後身とされるが伝承の域を出ない。
また「真田十勇士」のメンバーである三好清海入道とその弟・三好伊三(いさ)は、政康と弟の三好政勝(まさかつ)がモデルだともされる。
三好実休(みよし・じっきゅう)
摂津の人(1527?~1562)
三好長慶(ちょうけい)の弟。義賢(よしかた)の名で著名だがこれは誤伝で、本名は之虎(これとら)。実休は法名である。
兄の長慶は細川晴元(ほそかわ・はるもと)に仕え、実休はその分家で阿波守護の細川持隆(もちたか)に仕えた。
1548年、長慶は反旗を翻し細川晴元を追放。
1553年に実休が弟の十河一存(そごう・かずなが)とともに細川持隆を暗殺し、その息子の細川真之(さねゆき)を傀儡の守護として擁立した。
三好家の支配域は畿内から阿波・讃岐の大部分に及び、1560年には河内守護の畠山高政(はたけやま・たかまさ)を追放し実休が代わりの河内守護となるが、1562年、根来衆の援助を得た畠山高政の反撃により、実休は敗走し首を獲られた。
実休の討ち死にの一報が届いた時、長慶は連歌会を催していた。
だが長慶は動じることなく連歌に事寄せて実休へ手向けの句を贈り、参加者を感嘆させたという。
実休自身も千利休らと交流した高名な茶人であり、山上宗二(やまのうえ・そうじ)には武士の中でただ一人「数奇者」と評された。
また旧主の細川持隆の暗殺後に出家したことから、内心では暗殺に悔悟の念を抱いていたと思われる。
三好長慶(みよし・ちょうけい)
摂津の人(1522~1564)
摂津の守護代。名は「ながよし」とも読む。
管領・細川京兆家と足利将軍家を京から追放し実権を握ったため、織田信長に先駆ける戦国時代初の天下人ともされる。
父は細川家に仕えた重臣だが、その権力を恐れた主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)に扇動された一向一揆によって暗殺され、当時10歳の長慶は母とともに阿波へ逃亡した。
だが晴元は一向一揆を抑えられずに大乱となったため、元服前わずか12歳の長慶が間に入って和睦を斡旋し、翌1534年には父の暗殺にも加担した木沢長政(きざわ・ながまさ)の仲介により長慶は細川家に帰参した。
1539年、長慶はもともと父が務めていた代官職を晴元に要求した。
だが代官職には父の仇の一人である三好政長(まさなが)が就いており晴元は難色を示したため、長慶は兵を引き連れて幕府に直談判した。
これに驚いた晴元は付近の大名に呼びかけて兵を集め、一触即発の空気が流れたが、長慶も諸大名を敵に回すのを恐れて和睦し、代官職は得られなかったものの摂津守護代に任じられた。
1541年、長慶は晴元の命で塩川家を攻めたが、木沢長政らが反逆したため敗走した。
しかし河内守護代の遊佐長教(ゆさ・ながのり)が味方し、太平寺の戦いで勝利した長慶は木沢長政の首を上げ、父の仇の一人を葬った。
1546年、反乱した細川氏綱(うじつな)の勢力に遊佐長教と河内守護・畠山政国(はたけやま・まさくに)、さらに将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)が加わり晴元の排除に動いた。
大軍を相手に長慶も連敗したが、四国で勢力を築いていた弟の三好実休(じっきゅう)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)、十河一存(そごう・かずなが)に、実休が仕えていた細川持隆(もちたか)らの援軍が駆けつけると戦況は逆転し、敗北した足利義晴は嫡子の足利義輝(よしてる)に将軍職を譲り隠居し、将軍という後ろ盾を失った細川氏綱らも晴元らと和睦した。
1548年、長慶は晴元に三好政長の追討を願い出たが(この頃に和睦した遊佐長教の娘を側室に迎え入れ、その際に長教から三好政長が父の仇と教えられたともいう)拒絶されると、細川氏綱、遊佐長教とともに謀叛を起こした。
晴元は六角家の援軍を頼みに防衛線を引いたが、長慶は補給路を断つと弟らとともに猛攻を仕掛け三好政長を討ち取った。
晴元は足利義晴・義輝をつれて近江に逃げ、これにより細川政権は事実上崩壊し、長慶は細川氏綱を主君に仰ぎつつも実権を握った。
間もなく足利義晴は没したものの晴元と足利義輝、三好政長の子・三好政勝(みよし・まさかつ ※真田十勇士の一人・三好伊三(いさ)のモデルとされる)は抵抗を続け、長慶の義父・遊佐長教も暗殺された。(暗殺したのはなんと長教が帰依していた僧侶である)
何度か長慶と晴元・義輝の間で和睦が結ばれることはあったが、両者の衝突は続き、ようやく和議を見て義輝が京に戻ったのは1558年のことである。
長慶の勢力圏は摂津を中心に山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨の広範囲に及び、それに匹敵する大名は関東の北条家くらいのものだった。(面積での比較だけで経済・文化的には三好家に圧倒的に軍配が上がる)
1560年にはさらに大和・河内にも版図を広げ、伊予・山城へも食指を伸ばし三好家は最盛期を迎えた。
しかし翌年から三好家には凶事が相次ぐ。まず軍事の中心にいた弟の十河一存が急死。
さらに元の河内守護・畠山高政(はたけやま・たかまさ)が晴元の次男・細川晴之(はるゆき)を擁して挙兵し、次弟の三好実休を討ち取ってしまった。
一時は六角家によって京も奪われたものの、重臣の松永久秀(まつなが・ひさひで)や嫡子の三好義興(よしおき)、弟の安宅冬康らの働きで反抗勢力は一掃された。なおこの間、長慶は出陣した記録がなく、重病に冒されていたと推測される。
長慶が倒れた隙に野心深き松永久秀が台頭したところに三好義興、細川氏綱の訃報が続き、そして1564年、長慶は安宅冬康に突如として自害を命じた。
その理由は諸説あるが、松永久秀の謀略の他、長慶が錯乱したか、あるいは鬱病による心中説まで有力視されるほどで、いずれにしろ長慶が正気を失っていたことは疑いない。
冬康に死を命じてから2ヶ月も経たずに長慶は病没した。
家督は十河一存の子・三好義継(よしつぐ)を養子に迎え継がせたが、年若い義継を後見する三好三人衆に実権を奪われ、松永久秀の反乱、足利義輝の暗殺、義輝の弟・足利義昭(よしあき)を擁立した織田信長の上洛、傀儡の立場に憤った義継が信長へ降伏、と事態は一気に動き、1568年には三好勢力は畿内から姿を消した。
その後も重臣・篠原長房(しのはら・ながふさ)や義継の弟・三好長治(ながはる)らが内紛で命を落とし、急激に衰退した三好家は1573年、信長に反逆した義継の死をもって事実上の滅亡を遂げた。
晩年の乱心や細川晴元、足利義輝らを追い詰めながら命までは奪わなかった優柔不断さ、死後10年もたずに滅亡したことから長慶への評価は時代を問わず辛いが、織田信長に先駆けて堺に目をつけ経済を回すことで力を蓄え、一時は日本最大の勢力を誇ったことは率直に称賛すべきだろう。
また旧主や将軍を殺さず、しかも人質にとっていた晴元の子を下克上後も保護し、兄弟と再会させ「旧主に恩返しができた」と涙したという逸話は、優柔不断さよりもむしろ彼の並外れた穏和さを物語っていると思える。
一色藤長(いっしき・ふじなが)
丹後の人?(??~1596?)
名門・一色家に生まれ、当初は宗家の領国である丹後で役職にあったとされる。
1544年、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)に召され京に上った。
1565年、義輝が暗殺されると、幽閉されたその弟の足利義昭(よしあき)を救い出し、以降も随行した。
だが1573年、将軍位についたものの織田信長によって義昭が追放されると、それには従わず、旧幕臣の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)のもとへ身を寄せた。
離れたとはいえ義昭との仲は悪くなかったようで、後に挨拶に出向いた記録や、義昭の子とされる一色義喬(よしたか)を養育したとする説が残っている。
細川家に仕えた後は、能会の出席者として名前が見える程度で没年もはっきりせず、1600年の関ヶ原の戦いで戦死したとする異説もある。
足利義昭(あしかが・よしあき)
山城の人(1537~1597)
室町幕府最後の将軍。
12代将軍・足利義晴(よしはる)の次男として生まれた。当時の幕府は権勢衰え、有力大名の援助がなければ日々の食費にすら事欠く有様で、次男の義昭も6歳にして仏門に出された。
ところが1565年、兄で13代将軍の足利義輝(よしてる)が松永久秀(まつなが・ひさひで)や三好三人衆により暗殺される。
義昭も身柄を拘束されたが、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)や和田惟政(わだ・これまさ)、一色藤長(いっしき・ふじなが)らの助けにより脱出し、和田家の居城のある近江へと落ち延びた。
義昭は河内畠山家、越後の上杉謙信、能登畠山家ら幕府と親密な大名に働きかけ、再興を狙ったものの、河内畠山家は三好家との戦いで劣勢に立たされ、上杉・能登畠山家は遠方で動けず、また南近江の六角家が三好三人衆と内通したため、妹婿の武田義統(たけだ・よしむね)を頼り若狭へと下った。
しかし若狭武田家もまた内紛から領国統治すらままならず、義昭は間もなく越前の朝倉家へ移った。
朝倉家は越前で百年に渡る栄華を謳歌し兵力は十分だったが、当主の朝倉義景(あさくら・よしかげ)は無理な戦を好まず、義昭の再三にわたる上洛要請を無視した。
またこの頃にはかつての幕府の奉行衆8人のうち6人が義昭のもとへ集まり、そのため三好家が擁立した14代将軍・足利義栄(よしひで)が京に入っても幕政を行えないため、義栄の上洛を延期する一因ともなっていた。
1568年、業を煮やした義昭は、美濃を攻略し「天下布武」を宣言した織田信長のもとへ、朝倉家に仕えていた明智光秀の仲介で移った。
義昭という格好の旗印を得た信長はすぐさま上洛戦を開始し、立ちふさがる六角家を撃破し京へと入った。三好三人衆は撤退し、足利義栄も長らく患っていた病からついに京に一歩も足を踏み入れることなく没し、義昭はついに15代将軍へと返り咲いた。
義昭は全国の大名の戦を調停して回るなど精力的に幕府復活に動き、信長も御所を再建するなど援助し、当初は義昭が信長を「御父」と記すなど関係は良好だったが、あくまで幕府再興を考える義昭と、天下統一を狙う信長との間には次第に亀裂が生じた。
1571年頃から義昭は上杉・毛利・本願寺・武田・六角家らに働きかけいわゆる「信長包囲網」を敷いた。これに朝倉・浅井、さらに兄の仇である三好三人衆・松永家まで加わると、いよいよ均衡は破れる。
武田信玄が上洛を開始し、三方ヶ原で徳川軍を大破すると、信長は窮地に立たされたが、包囲の一角を担う朝倉義景が兵の疲労と積雪を理由に越前に撤退し、さらに信玄が陣中で急死し武田軍も引き上げると戦況は一変した。
信玄の死に先立ち信長は自分の子を人質に、和睦を申し入れたものの、義昭はこれを信用せず拒絶した。
信長の兵が迫ると幕臣の細川藤孝や荒木村重(あらき・むらしげ)らは義昭を見限り投降した。信長は義昭の命までは取ろうと思わず、再び和睦を呼びかけるも拒絶されたため、上京全域を焼き討ちすると、朝廷に働きかけ強引に和睦を結んだ。
しかしわずか3ヶ月後に義昭が挙兵するなど信長との間は完全に決裂し、信長もついに義昭を京から追放した。
朝倉・浅井家も相次いで滅ぼされ、信長が畿内の支配を固め1574年、室町幕府は滅亡した。
その後も義昭は征夷大将軍の地位にはあり続け、幕府の奉行衆も多くが付き従い、なおも各地の大名や家臣を幕府の役職に任じていたが、近衛前久(このえ・さきひさ)を逆恨みで追放するなどした義昭に従う公家はおらず、その権力は限定的なものに落ちていた。
義昭ははじめは妹婿の三好義継(みよし・よしつぐ)を頼ったが(その際の護衛は信長家臣の羽柴秀吉が務めた)、織田家と三好家も敵対したため堺へ移った。
義昭は帰京を何度となく要請したが、同時に信長に人質を出すよう求めたため果たされることはなかった。
さらに足利家とゆかりある紀伊、ついで毛利家の備後へと移り、鞆で長く過ごしたため「鞆幕府」と称された。
各地の大名に調停を働きかけて権力を示す一方で、毛利家には上洛を促したが色好い返事は得られなかった。
義昭は毛利家が動けないのは北九州で大友家と争っているからだと考え、島津家や龍造寺家に大友征伐を命じ、それに大義名分を得た島津家が北上し、大友家衰退のきっかけとなる耳川の戦いが行われたとする説もある。
1587年、信長の死後に権力を継いだ豊臣秀吉は九州征伐に向かう途上、義昭を訪ねた。
義昭は頑強に抵抗する島津家に以前から秀吉との和睦を勧めており、秀吉の来訪はその返礼と思われる。
そして九州制圧後の1588年、義昭は実に15年ぶりの帰京を果たすと、自ら将軍職を辞した。将軍職は当人が没するか辞退するまで解かれない慣例(辞退したのも義昭が初である)のため、室町幕府は滅亡しても義昭はこの時点まで公式に在位していたとされる。
秀吉は義昭を厚遇し、山城に1万石を与え、殿中での待遇は大名よりも上とした。晩年には斯波・山名・赤松ら室町時代の名だたる大名の子孫とともに秀吉の御伽衆に加えられ、文禄・慶長の役では秀吉たっての要請により、名家から選抜された200人の軍勢を率いて肥前まで出陣したという。
1597年に61歳で病没し、老齢の身を押して肥前まで出向いたことが原因ともされるが、歴代の室町幕府将軍の中で最も長命であった。
1566年、松永久秀(まつなが・ひさひで)と三好三人衆に13代将軍・足利義輝(よしてる)が暗殺されると、のちに松永久秀と敵対した三好三人衆によって、14代将軍に義維の子・足利義栄(よしひで)が擁立された。
義維は義栄の後見人となるが、急速に勢力を拡大していた織田信長が、かつて義維が追放した兄・義晴の子である足利義昭(よしあき)を立て、上洛を開始した。
快進撃を続ける信長に抗すすべはなく、義維らは京を逃れ、もともと患っていた義栄もすぐに亡くなり、復権の夢は途絶えた。阿波に戻った義維も、数年後に死去した。
大和に生まれ、当時、勢力を伸ばしていた畠山高政(はたけやま・たかまさ)に仕えた。
だが畠山家は三好家との争いに敗れて没落し、以降は筒井家に仕える。
父が急死し、わずか2歳で跡を継いだ筒井順慶(つつい・じゅんけい)のもとで頭角を現し、松倉重信(まつくら・しげのぶ 通称は右近)とともに「右近左近」と称されたというが、いずれも正確な史料には見当たらないため、その前半生は謎に包まれている。
筒井順慶が病に倒れたため、跡を継いだ筒井定次(さだつぐ)とは折り合いが悪く、筒井家を去り、各地を転々としたが、4万石の城主となっていた石田三成に2万石という高禄で招かれ、仕えるようになった。
「主君が同じ石高とは古今に類がない」と驚かれたとされるが、これもやはり伝承であり、佐和山19万石となってからの三成に招かれたという説が有力だが、2万石を与えられたというのは確かであり、いずれにしろ破格の待遇であったことは間違いない。
その後は三成の片腕として活躍し、朝鮮出兵でも大功があり、豊臣秀吉の死後に台頭した徳川家康の暗殺計画を練ったともいう。
1600年、関ヶ原の戦い前夜、島津義弘らとともに夜襲を提案したが退けられた。
本戦では陣頭で指揮をとり、黒田長政(くろだ・ながまさ)と戦ったが、鉄砲隊の奇襲を受けて負傷し、撤退した。
この際に死亡したとも言われ、どちらにしろ開戦後すぐに左近を失ったことで、西軍が不利に陥ったことは確実である。
正午過ぎ、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返り、戦の趨勢は決した。
負傷を押して前線に戻った左近は、黒田軍に決死の突撃を敢行し、銃弾を浴びて戦死した。
左近の最期の奮戦ぶりは東軍の間でも語り草となり、特に黒田軍の将兵は関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされ、左近の「かかれーッ!」という叫びを夢枕に聞いては飛び起きたという。
さらに後年、関ヶ原の思い出を老いた将兵たちが語り合ったとき、左近の服装、軍旗などそれぞれの記憶がまちまちで一致しなかった。
左近のあまりの恐ろしさから記憶が混乱していたのだろう、とされる。
~異説~
左近についてはいろいろな異説が残っている。
まず関ヶ原の戦いの際に「若い頃は武田信玄に仕え、家康を破った」と語ったというもの。
だが島家は大和の土豪であり、甲斐の武田家に仕えたということは考えがたい。筒井家を出奔した頃にはすでに武田家も滅びている。
ゲーム『戦国無双』で若き日の左近が武田信玄に仕えているのはこれが元である。
また関ヶ原の戦い後も遺体は見つからず、京都で左近を目撃したという者が相次いだことから、生存説も根強く、各地に墓所や伝承が残っており、隆慶一郎の『影武者徳川家康』や、それを原作とした原哲夫のマンガ『SAKON』もそうした左近生存説に基づいて描かれたものである。
前半生は不明な点が多く、土豪とも商人とも言われ、俗説では斎藤道三とも旧知の仲だったとされる。
30歳頃から三好長慶(みよし・ちょうけい)に仕え、主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)や征夷大将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を京から追放した。
信頼を得た久秀は三好長慶の娘をめとり、三好家を取り仕切り、幕政にも関与するようになり、細川、波多野、六角家とたびたび交戦した。
1560年には弾正少弼に任官され、この頃には三好家の臣下ながら、主君と拮抗する勢力を得ていた。
1562年、大和に多聞山城を築城し移り住むと、河内の畠山高政(はたけやま・たかまさ)、大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)を追放するなど勢力を伸ばし、大和を手中に収めた。
一方で三好長慶は、弟で名将でもある三好義賢(みよし・よしかた)、十河一存(そごう・かずなが)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)、嫡男の三好義興(みよし・よしおき)を相次いで亡くし、覇気を失った。
そのうちいくつかは久秀の暗殺とささやかれるが、真相は定かではない。
1564年、三好長慶も没し、幼い三好義継(みよし・よしつぐ)が跡を継ぐと、久秀は三好三人衆とともに三好家を牛耳った。
1565年には、復権を狙った足利義輝を暗殺したが、政権をめぐり三好三人衆と対立し、家中のほとんどが久秀の敵に回った。
1567年、久秀は畠山高政や根来衆と結ぶが、三好三人衆と、大和の奪回を狙う筒井順慶に挟撃されて敗走した。
しかし翌年、傀儡の立場に嫌気が差した三好義継が久秀を頼って落ち延びてくると、勢力を盛り返し、三好三人衆の布陣した東大寺を奇襲して、大仏殿を焼き払った。
1569年、織田信長が上洛すると、久秀は名茶器「九十九髪茄子」を差し出しいちはやく降伏した。
信長は「主家の乗っ取り、将軍暗殺、大仏焼き討ち、という前代未聞の三悪事をなした極悪人」とからかいながらも歓迎し、助力を得た久秀は大和の諸城を奪回していった。
余談だが大仏殿の焼き討ちはルイス・フロイスによると、三好家のキリシタンが騒ぎに乗じて起こしたものらしく、からかった信長自身も「主家の乗っ取り、将軍追放、比叡山焼き討ち」の三悪事を行なっている。
さらに蛇足だが久秀は三好三人衆との戦いのさなか、日本初のクリスマスを理由に休戦を命じている。
1570年、朝倉義景(あさくら・よしかげ)を攻めた信長が、妹婿の浅井長政に背後を襲われ窮地に陥ると、久秀は朽木元綱(くちき・もとつな)を説得して味方につけ、退路を確保した。
また娘を信長の養女とした上で人質に差し出し、三好三人衆と和睦をまとめるなど織田家でも重要な役割を果たした。
だが将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が信長包囲網を敷くと、三好家や石山本願寺との関係を修復し、織田家を離れ包囲網に加わった。
しかし1573年、武田信玄が上洛の途上に急死すると、反撃に乗り出した信長は足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、包囲網に加担した大名を次々と破った。三好義継も敗死すると、久秀は多聞山城を明け渡して降伏した。
1577年、久秀は第二次信長包囲網に加わり、再び離反した。
久秀の才を惜しんだ信長は城を包囲する一方で、名茶器「平蜘蛛茶釜」と引き換えに助命を許そうとしたが、久秀はこれを拒絶した。
織田軍の総攻撃が始まると、久秀は自害の準備を始め、家臣にいつものように中風の予防のためお灸を据えるよう命じた。
これから死ぬというのにお灸もないだろうと家臣がいぶかると、久秀は「いざ腹を切ろうという時に中風で失敗したら、自害に臆したと思われ、武名をいっぺんに失うではないか」と叱りつけたという。
そして10月10日、平蜘蛛茶釜に爆薬を詰め、自爆した。これは文献に残る限り、日本初の爆死である。
またこの日はくしくも10年前に東大寺を焼き払ったのと同月同日であった。
そして1573年、高山父子は和田惟長に城へ招かれた。惟長の兵に襲われるも、警戒していた右近らは激しく抵抗。乱闘のさなかに燭台が倒され、部屋は夜の闇に包まれてしまうが、右近は灯りが消える前に惟長が床の間にいるのを見ていたため、すかさず床の間に突進し惟長を斬り伏せた。だが直後に高山家の家臣が誤って右近を斬ってしまい、首を半分ほど切断される重傷を負った。
致命傷かと思われたが右近は奇跡的に一命を取りとめ、それを神の慈悲だと感じ一層キリスト教に傾倒していくこととなった。
その後、高山家は約定通り荒木村重の家臣となった。父の高山友照(たかやま・ともてる)は家督を右近に譲り、キリスト教の布教に専念した。
1578年、荒木村重が突如として信長に反旗を翻した。
信長はまず要害にある高山家の居城を落とそうと、右近に降伏を迫った。右近は金や地位では動かないと考え「降らなければ畿内のキリシタンを皆殺しにし教会も全て壊す」と脅すと、高山家は徹底抗戦を主張する友照派と、降伏を主張する派に二分された。板挟みとなった右近は、地位を捨てると単身で信長に降伏した。
右近の降伏で荒木家は動揺し、征伐されたため信長は右近を元の地位に戻し、さらに加増してやった。
1582年、明智光秀は本能寺で信長を暗殺すると、各地に協力を呼びかけた。
外様の右近や中川清秀(右近の従兄である)は特に期待を掛けられたが、中国地方を攻めていた羽柴秀吉が迅速に畿内へ戻ってくると、その先鋒として明智軍を攻撃した。
その後も秀吉に仕え、中川清秀は柴田勝家との戦いで討ち死にしたものの、右近は多くの戦で手柄を立てた。
また人格者で、千利休の七哲(七人の高弟)にも数えられる右近に惹かれ、黒田官兵衛、蒲生氏郷(がもう・うじさと)らもキリシタンとなった。
一方で右近と父・友照は仏教や神道にとっては暴君で、領内の神社仏閣を次々と壊し、神官や僧侶を迫害したとも伝わるが、キリスト教の拡大を恨んだ僧侶らが誇張して記したともされ、詳細はわからない。
1585年、右近は播磨に転封となるが、間もなく秀吉からバテレン追放令が発布される。
黒田官兵衛らは棄教したが、右近は千利休の説得にも耳を貸さず、信仰を選び追放処分を受け入れた。
しばらくは小西行長(こにし・ゆきなが)によって小豆島に匿われ、1588年には前田利家に、建前上は追放処分を受けたまま1万5千石で招かれた。
秀吉に面と向かって反抗した右近を召し抱えられるのは、秀吉の親友で豊臣家の筆頭格の利家だけだったろう。
前田家の金沢城の修築の際には右近の築城技術が大きく貢献し、利家が亡くなると跡を継いだ前田利長(まえだ・としなが)には軍事・政治の両面で頼りにされた。
だが1614年、徳川家康のキリシタン国外追放令により、右近は前田家を去る。
内藤如安(ないとう・じょあん)らとともにマニラへ送られ、日本で活動する宣教師から右近の信仰ぶりを聞いていたスペイン人らに歓迎されたが、長旅と慣れない気候から老齢の右近は病を得て翌年に没した。享年64歳。
1559年、上洛した長尾景虎(後の上杉謙信)と意気投合し、関白でありながら謙信を助けるため越後へ向かい、上杉軍が南下すると上野・下総へまで従い、謙信が帰国しても危険を顧みず、単身で関東に残り情報収集に努めた。ちなみにその際には用いていた花押を公家様式から武家様式に改めており、前久の覚悟の程が見て取れる。
しかし1562年、武田・北条に二方面から攻められた謙信は苦戦し、行き詰まりを感じた前久は、謙信の説得を振り切り京へ帰国した。
謙信は前久の心変わりに激怒したというが、謙信の再度の上洛の準備をするための帰国という説もある。
1565年、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を暗殺した松永久秀や三好三人衆は、前久に庇護を求めた。
久秀らが前久の姉で足利義輝の妻を保護していた(人質にしていた?)ため、前久は久秀らの推す足利義栄(あしかが・よしひで)の将軍就任を認めた。
だが1568年、織田信長の助力を得て京に戻った足利義昭(あしかが・よしあき)は前関白の二条晴良(にじょう・はるよし)とともに、前久が兄・義輝の暗殺に関わっていたと疑い、朝廷から追放した。
前久は丹波の赤井直正(あかい・なおまさ)、次いで石山本願寺を頼った。この際、教如(きょうにょ 本願寺光寿)を猶子にしたり、三好三人衆の依頼を受け、石山本願寺も信長包囲網に加わるよう促したが、前久自身は信長に敵意は無く、包囲網に協力する足利義昭を信長に排除させることが目的であった。
そのため1573年、信長が足利義昭を追放し二条晴良も失脚すると、前久は再び赤井直正のもとに戻り、信長の許しを得て京に帰った。
以降は信長と親交を深めた。特に共通の趣味である鷹狩りでは、互いの成果を競い合ったという。
外交面では信長の指示を受けて九州の諸大名に和睦を結ばせたり、石山本願寺への降伏勧告を行った。10年以上にわたり頭を悩ませた石山本願寺を開城させ、法主の顕如(けんにょ 本願寺光佐)を退去させたことを信長は大いに喜び、天下平定の暁には近衛家に一国を与える約束までした。
だが1582年、武田家の征伐にあたって前久は信長に随行したが、同年に信長は本能寺で明智光秀に討たれた。
その際に明智軍が前久邸の屋根から信長軍を銃撃したため、またも暗殺への関与を疑われた前久は、徳川家康を頼り遠江に落ち延びた。
失意の前久は出家し、晩年は住職すらいない廃寺に隠棲し1612年、77歳で没した。