三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大和に生まれ、当時、勢力を伸ばしていた畠山高政(はたけやま・たかまさ)に仕えた。
だが畠山家は三好家との争いに敗れて没落し、以降は筒井家に仕える。
父が急死し、わずか2歳で跡を継いだ筒井順慶(つつい・じゅんけい)のもとで頭角を現し、松倉重信(まつくら・しげのぶ 通称は右近)とともに「右近左近」と称されたというが、いずれも正確な史料には見当たらないため、その前半生は謎に包まれている。
筒井順慶が病に倒れたため、跡を継いだ筒井定次(さだつぐ)とは折り合いが悪く、筒井家を去り、各地を転々としたが、4万石の城主となっていた石田三成に2万石という高禄で招かれ、仕えるようになった。
「主君が同じ石高とは古今に類がない」と驚かれたとされるが、これもやはり伝承であり、佐和山19万石となってからの三成に招かれたという説が有力だが、2万石を与えられたというのは確かであり、いずれにしろ破格の待遇であったことは間違いない。
その後は三成の片腕として活躍し、朝鮮出兵でも大功があり、豊臣秀吉の死後に台頭した徳川家康の暗殺計画を練ったともいう。
1600年、関ヶ原の戦い前夜、島津義弘らとともに夜襲を提案したが退けられた。
本戦では陣頭で指揮をとり、黒田長政(くろだ・ながまさ)と戦ったが、鉄砲隊の奇襲を受けて負傷し、撤退した。
この際に死亡したとも言われ、どちらにしろ開戦後すぐに左近を失ったことで、西軍が不利に陥ったことは確実である。
正午過ぎ、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返り、戦の趨勢は決した。
負傷を押して前線に戻った左近は、黒田軍に決死の突撃を敢行し、銃弾を浴びて戦死した。
左近の最期の奮戦ぶりは東軍の間でも語り草となり、特に黒田軍の将兵は関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされ、左近の「かかれーッ!」という叫びを夢枕に聞いては飛び起きたという。
さらに後年、関ヶ原の思い出を老いた将兵たちが語り合ったとき、左近の服装、軍旗などそれぞれの記憶がまちまちで一致しなかった。
左近のあまりの恐ろしさから記憶が混乱していたのだろう、とされる。
~異説~
左近についてはいろいろな異説が残っている。
まず関ヶ原の戦いの際に「若い頃は武田信玄に仕え、家康を破った」と語ったというもの。
だが島家は大和の土豪であり、甲斐の武田家に仕えたということは考えがたい。筒井家を出奔した頃にはすでに武田家も滅びている。
ゲーム『戦国無双』で若き日の左近が武田信玄に仕えているのはこれが元である。
また関ヶ原の戦い後も遺体は見つからず、京都で左近を目撃したという者が相次いだことから、生存説も根強く、各地に墓所や伝承が残っており、隆慶一郎の『影武者徳川家康』や、それを原作とした原哲夫のマンガ『SAKON』もそうした左近生存説に基づいて描かれたものである。