三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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三好家。血縁に関しては諸説あり判然としない。また政康の名は誤伝で政生(まさなり)が正しいともいう。
はじめは三好長慶(ちょうけい)と同じく細川家に仕え、主君を追放し下克上した長慶とも対立したが、後に和解すると三好家の柱石として働いた。
長慶が没するとその後を継いだ三好義継(よしつぐ)の後見人の一人として台頭し、三好長逸(ながやす)、岩成友通(いわなり・ともみち)とともに「三好三人衆」と呼ばれた。
三人衆と三好家の重臣・松永久秀(まつなが・ひさひで)は将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を殺し畿内の支配権を握ったが、権力を争い対立し、三人衆は足利義栄(よしひで)を後任の将軍に担ぎ上げ、松永久秀を本拠地の大和へ追い込んだ。
だが将軍を擁立され立場を失った三好義継は、不満を抱き松永久秀のもとへ出奔した。
さらに足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)を擁立し織田信長が大軍を率い上洛を開始。三好義継と松永久秀は織田家に降伏し、反抗勢力も次々と撃破され、病弱だった足利義栄も間もなく没すると三人衆は畿内を逐われた。
荒木村重(あらき・むらしげ)の織田家への反乱と、石山本願寺の蜂起で三人衆はいったんは摂津・河内を奪回したものの、武田信玄の急死を機に信長包囲網は崩壊し、三人衆のうち岩成友通は戦死、三好長逸は敗走後に行方をくらまし、政康もまた歴史から姿を消した。
後に豊臣家に仕え、大坂夏の陣で88歳の高齢でありながら奮戦した三好清海(せいかい)なる人物が政康の後身とされるが伝承の域を出ない。
また「真田十勇士」のメンバーである三好清海入道とその弟・三好伊三(いさ)は、政康と弟の三好政勝(まさかつ)がモデルだともされる。