三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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前半生は不明な点が多く、土豪とも商人とも言われ、俗説では斎藤道三とも旧知の仲だったとされる。
30歳頃から三好長慶(みよし・ちょうけい)に仕え、主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)や征夷大将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を京から追放した。
信頼を得た久秀は三好長慶の娘をめとり、三好家を取り仕切り、幕政にも関与するようになり、細川、波多野、六角家とたびたび交戦した。
1560年には弾正少弼に任官され、この頃には三好家の臣下ながら、主君と拮抗する勢力を得ていた。
1562年、大和に多聞山城を築城し移り住むと、河内の畠山高政(はたけやま・たかまさ)、大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)を追放するなど勢力を伸ばし、大和を手中に収めた。
一方で三好長慶は、弟で名将でもある三好義賢(みよし・よしかた)、十河一存(そごう・かずなが)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)、嫡男の三好義興(みよし・よしおき)を相次いで亡くし、覇気を失った。
そのうちいくつかは久秀の暗殺とささやかれるが、真相は定かではない。
1564年、三好長慶も没し、幼い三好義継(みよし・よしつぐ)が跡を継ぐと、久秀は三好三人衆とともに三好家を牛耳った。
1565年には、復権を狙った足利義輝を暗殺したが、政権をめぐり三好三人衆と対立し、家中のほとんどが久秀の敵に回った。
1567年、久秀は畠山高政や根来衆と結ぶが、三好三人衆と、大和の奪回を狙う筒井順慶に挟撃されて敗走した。
しかし翌年、傀儡の立場に嫌気が差した三好義継が久秀を頼って落ち延びてくると、勢力を盛り返し、三好三人衆の布陣した東大寺を奇襲して、大仏殿を焼き払った。
1569年、織田信長が上洛すると、久秀は名茶器「九十九髪茄子」を差し出しいちはやく降伏した。
信長は「主家の乗っ取り、将軍暗殺、大仏焼き討ち、という前代未聞の三悪事をなした極悪人」とからかいながらも歓迎し、助力を得た久秀は大和の諸城を奪回していった。
余談だが大仏殿の焼き討ちはルイス・フロイスによると、三好家のキリシタンが騒ぎに乗じて起こしたものらしく、からかった信長自身も「主家の乗っ取り、将軍追放、比叡山焼き討ち」の三悪事を行なっている。
さらに蛇足だが久秀は三好三人衆との戦いのさなか、日本初のクリスマスを理由に休戦を命じている。
1570年、朝倉義景(あさくら・よしかげ)を攻めた信長が、妹婿の浅井長政に背後を襲われ窮地に陥ると、久秀は朽木元綱(くちき・もとつな)を説得して味方につけ、退路を確保した。
また娘を信長の養女とした上で人質に差し出し、三好三人衆と和睦をまとめるなど織田家でも重要な役割を果たした。
だが将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が信長包囲網を敷くと、三好家や石山本願寺との関係を修復し、織田家を離れ包囲網に加わった。
しかし1573年、武田信玄が上洛の途上に急死すると、反撃に乗り出した信長は足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、包囲網に加担した大名を次々と破った。三好義継も敗死すると、久秀は多聞山城を明け渡して降伏した。
1577年、久秀は第二次信長包囲網に加わり、再び離反した。
久秀の才を惜しんだ信長は城を包囲する一方で、名茶器「平蜘蛛茶釜」と引き換えに助命を許そうとしたが、久秀はこれを拒絶した。
織田軍の総攻撃が始まると、久秀は自害の準備を始め、家臣にいつものように中風の予防のためお灸を据えるよう命じた。
これから死ぬというのにお灸もないだろうと家臣がいぶかると、久秀は「いざ腹を切ろうという時に中風で失敗したら、自害に臆したと思われ、武名をいっぺんに失うではないか」と叱りつけたという。
そして10月10日、平蜘蛛茶釜に爆薬を詰め、自爆した。これは文献に残る限り、日本初の爆死である。
またこの日はくしくも10年前に東大寺を焼き払ったのと同月同日であった。