三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
播磨の大名・小寺家の重臣である黒田家の嫡男として生まれる。主君の姓を与えられ小寺孝高(こでら・よしたか)と名乗った。
家督を継ぐと姫路城を任され、かつて妹夫婦を殺した赤松政秀(あかまつ・まさひで)が3000の兵で攻め寄せると、それを300の兵で撃退した。
小寺家は畿内で勢力を伸ばす織田信長、中国の雄・毛利輝元(もうり・てるもと)の二大勢力に挟まれていたが、孝高は信長の才覚を認め、羽柴秀吉の仲介を得ていちはやく臣従させた。
1576年、信長のもとから毛利家に逃れた征夷大将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は、毛利の水軍5000で小寺家を攻めさせた。しかし孝高はこれも500の兵で退けた。
秀吉が中国征伐を命じられると、孝高は姫路城を提供した。
ところが1578年、小寺家の盟友・別所長治(べっしょ・ながはる)が反旗を翻し、毛利、宇喜多、雑賀衆と連動して秀吉を攻撃した。
宇喜多直家(うきた・なおいえ)らの水軍7000以上を、孝高は1000の兵で退けたが、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)も謀反を起こすと、信長は秀吉軍を撤退させた。
孝高の主君・小寺政職(まさもと)も謀反に加わろうとしたため、孝高はまず旧知の荒木村重を説得し、反乱軍を切り崩して小寺政職を翻意させようと考えた。
しかし荒木村重は孝高を捕らえると、狭い土牢の中に監禁してしまった。
信長は孝高が帰ってこないため裏切られたと激怒し、人質として預っていた息子の黒田長政(ながまさ)を殺そうとした。
しかし秀吉の腹心・竹中半兵衛が身代わりを用意して長政をかくまったため、事無きを得た。
1年後、城が陥落し孝高も腹心の栗山利安(くりやま・としやす)に救出されたが、長い虜囚生活で左脚を患い、馬に乗れず歩行も不自由になってしまった。
1580年、離反した別所長治、小寺政職は討たれ、孝高は黒田孝高と名乗るようになった。
秀吉は姫路城を返そうとしたが、孝高は「姫路城は播磨を統治するために欠かせない」と断り、以降は秀吉の参謀として働くようになった。
孝高は息子の命を救ってくれた竹中重治に感謝し、竹中家の家紋を黒田家の家紋として用い、竹中半兵衛とともに「両兵衛」と並び称された。
中国攻めで孝高は「鳥取の渇え殺し」と恐れられた鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めを献策し、優勢に戦いを進めさせた。
しかし1582年、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、秀吉軍は窮地に陥った。
秀吉は大恩ある信長の死を悲しみ、茫然自失のていだったが、孝高は「御運が開けましたな。天下を獲る好機です」と励ました。その言葉で秀吉は我に返ったが、孝高の野心を感じ、以降は警戒するようになったという。
孝高は毛利方にまだ信長の死が伝わっていないことを利用し、包囲していた備中高松城を守る名将・清水宗治(しみず・むねはる)の切腹を条件に和睦を受け入れると、全軍を率いて畿内に引き返した。
後に「中国大返し」とうたわれた迅速な行軍により、秀吉軍はわずか10日で山崎に戻り明智光秀と対峙した。
光秀の備えは整わず、池田恒興(いけだ・つねおき)ら畿内の織田勢力と合流した秀吉軍が、圧倒的有利に立っており、光秀はあっさりと敗れ去り、三日天下に終わった。
孝高は柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、四国、九州征伐でも主力として戦い、外交戦略では戦わずして毛利家、宇喜多家を味方に取り込んだ。
九州平定後には豊前13万石を与えられ、佐々成政(さっさ・なりまさ)の失政が招いた大規模な一揆を鎮圧するなど、九州の不穏な勢力ににらみを利かせた。
1589年、隠居して黒田長政に家督を譲り、黒田如水と名乗った。
だがその後も秀吉の側に仕え、小田原征伐では北条氏政(ほうじょう・うじまさ)父子を説得して開城させ、朝鮮出兵では総大将・宇喜多秀家(ひでいえ)の軍艦として実質的に采配を振るうなど、第一線で戦い続けた。
一方で秀吉は如水への警戒を怠らず、謀反を恐れ重臣としては異例なほどに低い石高に抑えていた。(竹中半兵衛も同様に石高は低かった)
ある時、秀吉は「わしの死後に天下を治めるのは誰か」と問うた。周囲の者は徳川家康や前田利家の名を上げたが、秀吉は一顧だにせず「違う。如水だ。奴がその気になればわしが生きている間にも天下を獲れる」と言った。
「黒田様は10万石にしか過ぎませんが」と納得しないと、秀吉は「如水に徳川や前田のように百万石を与えたら、たちまち天下を獲るだろう」と答えた。
それを伝え聞いた如水は、すぐに剃髪して出家し、野心のないことを訴えたという。
また、秀吉の居城が地震で倒壊した際、見舞いに駆けつけた如水に秀吉は「わしが死ななくて残念だったな」と皮肉を浴びせたという。
1598年、秀吉が没すると、如水は伏見に戻り、混乱を未然に防ぐ一方で情報を集めた。
大乱が起こることを察知し、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)に乱に備えるよう助言した書状が残っている。
はたして1600年、徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いが起こった。
黒田長政は家康の養女をめとっていたことから東軍に与し、豊臣恩顧の大名を次々と東軍に付け、自身も主力として戦った。
九州にいた如水は張り巡らせていた情報網からいちはやく三成の挙兵を知ると、惜しげもなく蔵を開いて蓄えをばらまき1万近い兵を雇った。(およそ30万石の大名の兵力に相当する)
没落していた大友義統(おおとも・よしむね)が毛利家の援助を得て豊後に攻め寄せたが、如水は即席の軍でそれを打ち破り、加藤清正、鍋島直茂(なべしま・なおしげ)と合流し次々と城を落とした。
関ヶ原から引き上げてきた島津義弘を破り、不敗をうたわれた立花宗茂(たちばな・むねしげ)も降し、九州の北部をほぼ手中に収めた。
4万に膨れ上がった黒田軍はついに島津義久(しまづ・よしひさ)と対峙し、九州平定も目前に見えたが、家康は島津家と和睦し、停戦を命じたため如水の野望もついえた。
戦後、黒田長政は勲功第一として大幅な加増を得た。家康は長政の右手を握ると「徳川家の末代まで黒田家を手厚く扱おう」と激賞した。
感動した長政が父にそのことを伝えると、如水は「右手を握られている間、お前の左手は何をしていた」と冷たく言った。空いている左手でなぜ家康を刺さなかったと聞いたのである。
そして「関ヶ原の戦いが長引けば、その間にわしが九州を手に入れ、中国・四国へと攻め上がり、西国を治めじっくりと天下を狙えた。お前を天下人にしてやれたのに、勲功第一などと余計なことをしおって」と毒づいたという。
如水も加増を提示されたが、辞去すると九州にこもり、以降は表に出ることはなかった。
そして1604年、天下の望めないこの世に用はないと言わんばかりに59歳で死去した。
晩年は家臣団に冷たく当たるようになった。息子の代になって、自分が生きていた頃を惜しませないために、わざと嫌われるようにしたのだという。
だが跡を継いだ長政もやはり父譲りの癖のある人物らしく、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)ら多くの家臣が出奔している。
また度を超した倹約家としても知られ、家臣への褒美代わりに身の回りの物を安く売り渡していたというが、これも褒賞を与えれば家臣の間でひいきを感じて、結束が弱くなるという考えに基づいたもので、前述したように関ヶ原の戦いでは蔵を開いて蓄えを放出しており、その際に何度も金をもらいに来た強欲な者にも、笑って何度でも金を渡したという。
最後に、いかにも如水らしい辞世の句を紹介したい。
「おもひをく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて(死ぬにあたって思い残すことも、言い残すことも特に無い。道に迷うことは無い。成るように任せるだけだ)」