三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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美濃斎藤家に仕えた竹中家に生まれる。まるで婦人のような容貌で、物静かな性格だった。
1560年に家督を継いだ頃から、今川義元を破った織田信長が美濃への侵攻を開始した。
よく防いでいた斎藤義龍(さいとう・よしたつ)が1561年に没すると、跡を継いだ斎藤龍興(たつおき)は若く、軍才にも恵まれなかったため、次第に信長軍に押し込まれるようになってきた。
それでも重治の奇策でなんとか食い止めていたが、斎藤龍興は政務を顧みず酒色におぼれ、一部の側近だけを重用し、重治や安藤守就(あんどう・もりなり)ら美濃三人衆を冷遇していた。
業を煮やした重治らは1564年、弟・竹中重矩(しげのり)の病気見舞いと称して稲葉山城に入ると、密かに武装しわずか16人で城を乗っ取ってしまった。
重治は行いを改めるよう求めたが、龍興は改心しなかった。重治は信長からの開城要求も断ると、半年後に龍興に城を返還し、斎藤家を去った。
浅井長政の客将として一年余り過ごしたが、やがて21歳の若さで隠居してしまった。
1567年、斎藤家を滅ぼした織田信長は、重治を召し抱えたいと考え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を派遣した。秀吉は三顧の礼で重治・重矩の兄弟を迎え入れた。
1570年にかけて、征夷大将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が信長包囲網を敷くと、その一角を担った浅井家に向け、重治はかつての人脈を活かし調略活動を行い、いくつもの城を寝返らせた。
浅井家が滅びると、秀吉は一国一城の主となり、その頃から重治は秀吉の与力に付けられた。
中国征伐を命じられた秀吉に従い、軍師として策を立て、また多くの城を内応させた。
荒木村重(あらき・むらしげ)が謀反を起こし、説得に向かった黒田孝高(くろだ・よしたか)が捕らえられると、信長は黒田孝高も寝返ったと考え、その息子を処刑しようとした。
すると重治は偽の首を用意して孝高の息子をかくまい、それに感激した孝高は恩を忘れまいと、竹中家の家紋をもらい受け黒田家の家紋とした。
救出された孝高も後に秀吉の家臣となり、孝高の通称・黒田官兵衛にちなみ、重治と孝高は「両兵衛」と並び称された。
1579年、三木城の包囲中、重治は病に倒れた。
秀吉は重治を京に帰し療養させたが、武士ならば戦場で死にたいと重治は前線に戻り、陣中で死去した。
享年36歳。死因は肺病と見られる。
死の前に重治は、三木城攻略のために兵糧攻めを提案しており、それによって三木城は落ちた。
わずか16人で城を占拠した天才軍師ぶりと、早逝したことを惜しまれたためか、民衆に人気があり、江戸時代に講談で盛んに語られ、多くの逸話が作られた。
それが史実と入り交じってしまったため、重治の正確な事績は判然としないが、事実と思われることを見ただけでも、その傑出した才知は明らかである。
秀吉は絶大な信頼を寄せる一方で、重治や黒田孝高の頭脳を恐れ、実権を持たせないために少しの禄しか与えなかったという。