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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―足利義昭  不撓不屈の将軍

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戦国列伝―足利義昭  不撓不屈の将軍



足利義昭(あしかが・よしあき)
山城の人(1537~1597)

室町幕府最後の将軍。
12代将軍・足利義晴(よしはる)の次男として生まれた。当時の幕府は権勢衰え、有力大名の援助がなければ日々の食費にすら事欠く有様で、次男の義昭も6歳にして仏門に出された。

ところが1565年、兄で13代将軍の足利義輝(よしてる)が松永久秀(まつなが・ひさひで)や三好三人衆により暗殺される。
義昭も身柄を拘束されたが、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)や和田惟政(わだ・これまさ)、一色藤長(いっしき・ふじなが)らの助けにより脱出し、和田家の居城のある近江へと落ち延びた。
義昭は河内畠山家、越後の上杉謙信、能登畠山家ら幕府と親密な大名に働きかけ、再興を狙ったものの、河内畠山家は三好家との戦いで劣勢に立たされ、上杉・能登畠山家は遠方で動けず、また南近江の六角家が三好三人衆と内通したため、妹婿の武田義統(たけだ・よしむね)を頼り若狭へと下った。

しかし若狭武田家もまた内紛から領国統治すらままならず、義昭は間もなく越前の朝倉家へ移った。
朝倉家は越前で百年に渡る栄華を謳歌し兵力は十分だったが、当主の朝倉義景(あさくら・よしかげ)は無理な戦を好まず、義昭の再三にわたる上洛要請を無視した。
またこの頃にはかつての幕府の奉行衆8人のうち6人が義昭のもとへ集まり、そのため三好家が擁立した14代将軍・足利義栄(よしひで)が京に入っても幕政を行えないため、義栄の上洛を延期する一因ともなっていた。

1568年、業を煮やした義昭は、美濃を攻略し「天下布武」を宣言した織田信長のもとへ、朝倉家に仕えていた明智光秀の仲介で移った。
義昭という格好の旗印を得た信長はすぐさま上洛戦を開始し、立ちふさがる六角家を撃破し京へと入った。三好三人衆は撤退し、足利義栄も長らく患っていた病からついに京に一歩も足を踏み入れることなく没し、義昭はついに15代将軍へと返り咲いた。

義昭は全国の大名の戦を調停して回るなど精力的に幕府復活に動き、信長も御所を再建するなど援助し、当初は義昭が信長を「御父」と記すなど関係は良好だったが、あくまで幕府再興を考える義昭と、天下統一を狙う信長との間には次第に亀裂が生じた。
1571年頃から義昭は上杉・毛利・本願寺・武田・六角家らに働きかけいわゆる「信長包囲網」を敷いた。これに朝倉・浅井、さらに兄の仇である三好三人衆・松永家まで加わると、いよいよ均衡は破れる。
武田信玄が上洛を開始し、三方ヶ原で徳川軍を大破すると、信長は窮地に立たされたが、包囲の一角を担う朝倉義景が兵の疲労と積雪を理由に越前に撤退し、さらに信玄が陣中で急死し武田軍も引き上げると戦況は一変した。
信玄の死に先立ち信長は自分の子を人質に、和睦を申し入れたものの、義昭はこれを信用せず拒絶した。
信長の兵が迫ると幕臣の細川藤孝や荒木村重(あらき・むらしげ)らは義昭を見限り投降した。信長は義昭の命までは取ろうと思わず、再び和睦を呼びかけるも拒絶されたため、上京全域を焼き討ちすると、朝廷に働きかけ強引に和睦を結んだ。

しかしわずか3ヶ月後に義昭が挙兵するなど信長との間は完全に決裂し、信長もついに義昭を京から追放した。
朝倉・浅井家も相次いで滅ぼされ、信長が畿内の支配を固め1574年、室町幕府は滅亡した。
その後も義昭は征夷大将軍の地位にはあり続け、幕府の奉行衆も多くが付き従い、なおも各地の大名や家臣を幕府の役職に任じていたが、近衛前久(このえ・さきひさ)を逆恨みで追放するなどした義昭に従う公家はおらず、その権力は限定的なものに落ちていた。

義昭ははじめは妹婿の三好義継(みよし・よしつぐ)を頼ったが(その際の護衛は信長家臣の羽柴秀吉が務めた)、織田家と三好家も敵対したため堺へ移った。
義昭は帰京を何度となく要請したが、同時に信長に人質を出すよう求めたため果たされることはなかった。
さらに足利家とゆかりある紀伊、ついで毛利家の備後へと移り、鞆で長く過ごしたため「鞆幕府」と称された。
各地の大名に調停を働きかけて権力を示す一方で、毛利家には上洛を促したが色好い返事は得られなかった。
義昭は毛利家が動けないのは北九州で大友家と争っているからだと考え、島津家や龍造寺家に大友征伐を命じ、それに大義名分を得た島津家が北上し、大友家衰退のきっかけとなる耳川の戦いが行われたとする説もある。

1587年、信長の死後に権力を継いだ豊臣秀吉は九州征伐に向かう途上、義昭を訪ねた。
義昭は頑強に抵抗する島津家に以前から秀吉との和睦を勧めており、秀吉の来訪はその返礼と思われる。
そして九州制圧後の1588年、義昭は実に15年ぶりの帰京を果たすと、自ら将軍職を辞した。将軍職は当人が没するか辞退するまで解かれない慣例(辞退したのも義昭が初である)のため、室町幕府は滅亡しても義昭はこの時点まで公式に在位していたとされる。

秀吉は義昭を厚遇し、山城に1万石を与え、殿中での待遇は大名よりも上とした。晩年には斯波・山名・赤松ら室町時代の名だたる大名の子孫とともに秀吉の御伽衆に加えられ、文禄・慶長の役では秀吉たっての要請により、名家から選抜された200人の軍勢を率いて肥前まで出陣したという。
1597年に61歳で病没し、老齢の身を押して肥前まで出向いたことが原因ともされるが、歴代の室町幕府将軍の中で最も長命であった。

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