三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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池田勝正(いけだ・かつまさ)
摂津の人(1539?~1578?)
摂津の国人衆・池田長正(ながまさ)が没すると、家督を継いだ。
長正との関係は親子とも、ただの一族だが文武両道に優れたため長正が跡を継がせたとも言われる。
当時の池田家は富に恵まれ、ルイス・フロイスは「畿内で最も卓越し、最も装備の整った兵1万をいつでも供出できた」と記している。
池田家は三好家に従属していたが1568年、織田信長が侵攻してくると抗し切れずに降伏した。
信長は勝正の武勇を気に入り、抵抗したにも関わらず加増した上で本領安堵とし、摂津守護の地位を与え和田惟政(わだ・これまさ)、伊丹親興(いたみ・ちかおき)とともに摂津を統治させた。
1569年、三好三人衆が将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)を襲撃すると、勝正はわずかな手勢を率いて救援に駆けつけ、敵陣にただ一騎で切り込む勇猛ぶりを発揮した。
翌1570年、金ヶ崎の戦いでは反乱した浅井長政に背後を襲われた織田軍の殿軍を務め、信長を無事に撤退させた。羽柴秀吉の出世試合として知られ、明智光秀も参戦していたこの戦で彼らを指揮したのが勝正である。
しかし同年6月、長正の娘婿の荒木村重(あらき・むらしげ)と長正の嫡子(勝正の弟ともいう)池田知正(ともまさ)が結託し、勝正を追放し織田家に反逆した。
異説として勝正は一族と反目した末に数人を斬り捨て出奔したともいうが、いずれにしろ池田家を離れ織田家に仕え、足利義昭と信長が敵対すると幕府に仕えるようになった。
その後、織田方に転じた荒木村重に敗北し、高野山へ追放された。
勝正は隠居したとも、旅に出て九州に渡ったとも、細川家や有馬家に仕えたとも言われ、また1574年に「池田カツマサ」なる人物が石山本願寺に協力したとする記録があり、同一人物だろうか。
池田家の史料では1578年に没した。
同年、荒木村重と池田知正は突如として信長に反旗を翻し、1年余りの抵抗の後に妻子を捨てて逃亡した。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると知正は秀吉に仕え、大名にこそ列しなかったが旗本となり、関ヶ原の戦いでもうまく立ち回り徳川家に仕えたものの、没すると2代後の当主が家臣の横領の罪で改易となり、以降の池田家が再興することはなかった。
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足利義輝(あしかが・よしてる)
京の人(1536~1565)
室町幕府第13代将軍。
第12代将軍・足利義晴(よしはる)の嫡子として生まれる。この頃の足利家は衰退し、管領の細川晴元(ほそかわ・はるもと)に敗れては近江へ逃れ、和睦しては京に戻りを繰り返していた。
1546年、義輝は11歳で将軍職を譲られた。父の義晴も同じく11歳で将軍となったことにちなみ、また自分が健在のうちに義輝を後見したいとの狙いがあったと見られる。
京を追われていたため近江坂本で将軍に就任し、はじめは足利義藤(よしふじ)と名乗った。2年後に細川晴元と和睦し京へ戻った。
1549年、細川家の重臣・三好長慶(みよし・ちょうけい)が、晴元に父を殺された細川氏綱(うじつな)を抱え上げ(なお長慶もやはり父を晴元に殺されている)反旗を翻した。
晴元は連敗し京から逃れ、義輝もいつも通り近江坂本へ逃げたが潜伏中に義晴が病死した。
1552年、細川氏綱を管領にするという条件で長慶と和睦したが、義輝は傀儡の立場に置かれた。翌年に晴元と協力して三好軍と戦うも敗北し、おなじみの近江坂本に逃れ5年を過ごし、名を義輝に改めた。
そのさなかに年号が永禄に改元されたが、義輝はそれを知らずに3ヶ月間、以前の年号を使い続けてしまい、朝廷に抗議したという不遇過ぎる逸話が伝わる。
1558年、近江守護・六角承禎(ろっかく・じょうてい)の援軍を得た義輝は、晴元ともに反撃に転じた。
序盤は優勢だったが四国から三好家の本隊が駆けつけると戦況は逆転し、六角軍も進撃をやめてしまった。
同年、六角承禎の仲介により長慶と和睦し、義輝は5年ぶりに京に戻った。
長慶も前回の反省を活かしてか、義輝を名目上は将軍として推戴し、自身は幕臣として仕えた。
義輝は幕府と将軍の権威復活のため、全国の大名の争いを調停し、また各地方の有力者に守護職や自分の名を一字与えて回った。
一字拝領した者は義藤の頃に与えた細川藤孝(ふじたか)を皮切りに、毛利輝元(もうり・てるもと)、伊達輝宗(だて・てるむね)、上杉輝虎(うえすぎ・てるとら 上杉謙信)、島津義久(しまづ・よしひさ)、武田義信(たけだ・よしのぶ)など東北から九州まで非常に多い。
義輝の奮闘は功を奏し、上杉謙信や織田信長らが上洛し、彼らに将軍の名を大義名分として利用される程度にまで権威は回復した。
1562年、長慶の弟・三好実休(じっきゅう)が六角・河内畠山軍に敗れ戦死すると、先に勇猛で知られた下の弟・十河一存(そごう・かずなが)も失っていた長慶は弱気に陥り、三好家に衰退の兆しが見え始めた。
長慶と政所執事の伊勢貞孝(いせ・さだたか)が対立すると、義輝はその機に乗じすかさず長慶に肩入れし伊勢貞孝を更迭。
貞孝が反乱を起こすと長慶に命じて殺させ、実に200年近く続いた伊勢家の政所支配に終止符を打った。
1564年、長慶は錯乱し末弟で三好家の重臣・安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)に死を命じた挙句、後を追うように病死した。
長年の宿敵が消えた義輝はいよいよ幕府再興の好機と喜んだが、長慶の死後に三好家、引いては幕府を牛耳ろうと考えていた松永久秀と三好三人衆が暗躍を始める。
まず義輝の叔父・足利義維(よしつな)と結託すると、義維の嫡子・足利義栄(よしひで)を新たな将軍候補として擁立した。
細川晴元、細川氏綱もすでに亡く、六角家もお家騒動で傾いており、義輝に味方する有力者はもはやいなかった。
そして1565年、松永久秀と三好三人衆は、三好家当主の三好義継(よしつぐ 長慶の養嗣子)とともに二条御所を襲撃した。
戦国の世に二人きりの剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)と塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)に師事し、卜伝からは奥義「一之太刀」を伝授されたという義輝は自ら刀を振るい奮戦したが衆寡敵せず、最期は刺客たちが四方から畳を盾として槍で突き掛け、刺し殺されたという。享年30。
足利家に伝わる名刀を十数本持ち出し、抜き身で畳に刺しておき、何人か斬り捨てては刀を取り替え戦い続けたとも言われ、この逸話は「日本刀は数人斬ったら血と脂で切れ味を失う」とする説の傍証(剣豪で知られる義輝があらかじめ刀を十数本も用意しておいたのは、数人斬っただけで使えなくなるとわかっていたからだ、というもの)として使われることがある。
またルイス・フロイスは「はじめは薙刀を振るい後に刀を使った」と記しており、剣術のみならず薙刀術も身に着けていたことがうかがえる。
義輝の死後、弟の足利義昭(よしあき)も幽閉されたが、義輝に仕えた細川藤孝らが救出し、付近の大名に支援を求めた。
それに応じた織田信長が決起し三好一派を駆逐すると、足利義昭を第15代将軍に据えたものの、やがて仲違いし信長は義昭を追放した。
義昭は毛利家のもとに流れ、後に豊臣秀吉と和解し京へ帰還を果たしたが、没すると子や孫はみな出家してしまい、血筋は途絶えた。
他にも義昭の子孫を自称する者が数名いるがいずれも出自の確認は取れない。
三好三人衆に推戴された足利義栄は第14代将軍となるが、病弱で庇護されていた四国から出られず、とうとう京へ足を踏み入れないまま没し、三好一派も信長に敗れ散り散りになっていった。
また公式記録では義輝には生後3ヶ月で没した長男以外に男子はないが、非公式に義輝の息子とされる人物が2人いる。
一人は尾池義辰(おいけ・よしたつ)で、細川藤孝の孫・細川忠利(ただとし)が藩主になると、彼を探し出して召し抱えたという。
もう一人は義輝暗殺の際に家臣によって救出された足利義高(よしたか)で、丹波波多野家に養育され、のちに僧侶になったという。
※アイコンは袁尚
赤松義祐(あかまつ よしすけ)
播磨の人(1537~1576)
播磨の大名。長じると父で播磨守護の赤松晴政(はるまさ)とともに政務に当たったが1558年、浦上政宗(うらがみ・まさむね)の後ろ盾を得て父を追放し守護の座を奪った。
晴政は娘婿の赤松政秀(まさひで)と協力して義祐に対抗し1564年、浦上政宗の息子の結婚式を襲撃し政宗父子を討ち取るなど内紛は長く続いた。
翌1565年、晴政が病没すると政秀は義祐と和解したが、その後も当時京の都を追われ放浪していた足利義昭(あしかが・よしあき)に接触するなど勢力拡大に動き、東播磨の別所安治(べっしょ・やすはる)もまた独立の気配を見せ、赤松家の衰退は誰の目にも明らかだった。
1568年、足利義昭が織田信長の庇護を得ると、政秀は娘を義昭の侍女として仕えさせようとした。
義祐は宗家を無視した行動に怒り、その娘を拉致させると浦上宗景(むねかげ 政宗の弟)とともに政秀を挟撃した。
政秀はたまらず足利義昭に救援を求め、義昭の要請で織田信長が援軍を出した。それに勢力拡大の好機と別所安治も加わり、さらに宇喜多直家(うきた・なおいえ)の謀叛で浦上軍も撤退し、義祐は窮地に立たされた。
だが幸運にも織田軍に畿内から追われながらもいまだ抵抗を続けていた三好家が後方で蜂起すると、信長は撤退を指示した。
義祐はすかさず信長に臣従を申し出ると、政秀と戦闘を続けていた浦上家を一転して攻撃した。
一方の政秀は黒田官兵衛父子に大敗し、浦上軍によって捕らえられた挙句に暗殺された。
宇喜多直家も孤立し浦上家に出戻ると義祐は兵を引き上げ、一連の動乱は終息した。
1570年、義祐は息子の赤松則房(のりふさ)に家督を譲り、その6年後に没した。
則房は織田・豊臣政権下でも名家の当主として一目置かれ豊臣秀吉の御伽衆を務めた他、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻め、朝鮮出兵など秀吉の主要な戦のことごとくに参戦し、1598年に没した。
しかし「参戦した」以外の記録がほとんどなく、播磨の他に与えられた阿波での事績も謎に包まれ、関ヶ原の戦いで西軍に属し切腹したとする異説もあり則房の、そして赤松家の最期は判然としない。
荒木村重(あらき・むらしげ)
摂津の人(1535~1586)
はじめは池田勝正(いけだ・かつまさ)に仕え、勝正の父ともされる池田長正(ながまさ)の娘をめとり一門衆に列した。
だが長正の死後、三好家の調略により長正の子・池田知正(ともまさ)とともに寝返り、勝正を追放した。
1571年、臣従する織田信長に見出され、池田家から引き抜かれた。
その際に信長は刀に饅頭を刺して顔先に突きつけ「食え」と命じたが、村重は臆せず一口に食べ、感心させたという逸話が伝わる。
織田家で数々の武功を立て、やがて知正も村重の配下に付けられ、1574年には摂津一国を任された。
しかし1578年、突如として摂津有岡城で反旗を翻した。明智光秀らの説得により一時は信長のもとへ釈明に赴こうとしたが、道中で家臣の中川清秀(なかがわ・きよひで)に「信長公は一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」と進言されたため、有岡城へ戻り立て籠もった。
羽柴秀吉は旧知の黒田官兵衛を向かわせ再度説得を試みたが、村重は官兵衛を幽閉し籠城戦を開始した。
信長は信頼していた村重の謀叛を信じられず説得に努めたものの、諦めると官兵衛も反乱したと思い込み、官兵衛の子で後の黒田長政(ながまさ)の処刑を命じたが、秀吉の軍師・竹中半兵衛は別の子供の遺体を探し、それを官兵衛の子だと偽ったため、事なきを得たという。
籠城は一年余り続いたが、重臣の中川清秀や高山右近(たかやま・うこん)らが織田家に寝返り、援軍も得られず孤立を深めると、村重は単身で有岡城を脱出し息子の守る尼崎城へと逃れた。
信長は代わって有岡城を守る池田知正と「尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子を助ける」という約定を交わし、知正は妻子を人質に残し村重の説得に向かったが、村重はそれを受け入れず、進退窮まった知正は出奔してしまった。
信長は見せしめとして村重、知正や家臣らの妻子百数十人を処刑した。
その後も信長は各地にちらばっていた荒木一族の者を見つけ次第殺し、匿った者も同じく殺した。
しかし村重は息子とともに尼崎城も離れ、毛利家に亡命した。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、堺に戻り茶人として第二の人生を歩み始めた。
千利休の十哲(十大弟子)に数えられるが、籠城戦のさなかに高山右近らキリシタンに裏切られたことを憎悪し讒言して回ったり、天下人となりつつあった豊臣秀吉を罵ったため処罰を恐れて出家した。
家族を捨て生き長らえたことを自嘲し荒木道糞(どうふん)と名乗ったが、後に秀吉に許され荒木道薫(どうくん)と改名させられた。
1586年、堺で52歳で没した。
妻子はほとんどが処刑されたが直前で乳母に逃がされたり、村重と行動をともにしていたため助かった子供が数人いる。
~謀叛の理由~
信長に謀叛した理由は諸説あり今もって定かではない。
親交のあった将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)や石山本願寺に調略された説。
中国方面軍の司令官に秀吉が任じられ、出世が望めないと悲嘆した説。
刀に刺した饅頭を食わされたことを実は恨んでいた説。
黒田官兵衛との謀略説。
など様々だが中でも面白いのが、中川清秀が石山本願寺へ兵糧を横流ししていたため処罰を恐れた説で、もしこれが事実ならば清秀は村重の謀叛の原因を作り、釈明しようとしたのを翻意させ、最後は信長に寝返って敗因を作るという絵に描いたようなマッチポンプぶりである。
赤井直正(あかい・なおまさ)
丹波の人(1529~1578)
丹波の国人衆。「赤鬼」、「悪右衛門」の異名をとった猛将。
「甲陽軍鑑」には徳川家康、長宗我部元親と並び「名高き武士」と名を挙げられている。
俳優・赤井英和は子孫である。
赤井家の次男として生まれ、荻野家の婿養子となっていたが、1554年、義父を殺害すると城を乗っ取った。
「悪右衛門」の異名はこのことから付いたとも、自称したともされる。
もう一つの異名「丹波の赤鬼」は無論、名字から来ており、同じ丹波の豪族・籾井教業(もみい・のりなり)は直正にちなんで「青鬼」と呼ばれた。
赤井家は丹波の大名である波多野家をもしのぐ勢力を有しており、直正も朝廷に忠誠を誓い、京にほど近い領地ということもあってか、前関白・近衛前久(このえ・さきひさ)の妹をめとるなど(将軍・足利家の娘をめとったとの説もあり)単なる一豪族に留まらない扱いを受けていた。
1557年、戦傷がもとで兄が亡くなると、その幼い息子の後見役として赤井家を率いることとなった。
そのため本名は荻野直正(おぎの・なおまさ)であるが、赤井姓で呼ばれることが普通である。
1558年には荒木家、1565年には兄の仇である内藤家を滅ぼし、着々と勢力を拡大した。
1570年、上洛を果たした織田信長に降伏し、本領を安堵された。
だが翌年、山名祐豊(やまな・すけとよ)に侵攻され、それを返り討ちにし山名家の居城を落としたところ、山名祐豊は信長に救援を求めた。
信長はそれに応じ、赤井直正討伐の名目で、明智光秀に丹波攻略を命じた。
明智軍は籠城した赤井軍を攻めあぐねた。さらに直正に味方する波多野秀治(はたの・ひではる)が、丹波の山深い地形を利したゲリラ戦で翻弄したため、明智軍は何度も撃破され、明智光秀自身も一時は命を落としかけたほどだった。
しかし1578年、直正が病死すると、求心力を失った赤井家は持ちこたえられず、翌年に丹波は陥落した。
数倍の兵力を擁しながら何年も攻略できなかった明智光秀は、信長に叱責され、それが本能寺の変の遠因となったとする説もある。
ちなみに明智光秀は信長の命令で、波多野家に自分の母を人質に出したところ処刑された、という話が知られているが、それは創作である。
雑賀衆を率いて石山本願寺に味方し、織田信長を苦しめた。
1600年、関ヶ原の戦いに先立ち西軍として伏見城を攻め、守将で徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)を討ち取った。
孫市、または孫一は雑賀衆の頭領が代々その名を継承したもので、半ば伝説的な人物であり、雑賀鈴木家の当主である鈴木佐太夫(すずき・さだゆう)やその子の鈴木重兼(しげかね)、重秀(しげひで)、重朝(しげとも)らが名乗ったとされ、彼らの事績が混ぜ合わされて雑賀孫市が誕生したと見られる。
特に前半生は鈴木重秀、後半生は鈴木重朝の事績が色濃く、以下は両者について記す。
鈴木重秀
紀伊の人(??~??)
鈴木佐太夫の次男。病弱な長男・重兼に代わり雑賀衆を統率した。
石山本願寺に味方し織田信長と戦い、文武両道の僧兵・下間頼廉(しもつま・らいれん)と並び「大坂之左右之大将」と呼ばれた。
1575年、天王寺の戦いでは織田軍の指揮官・塙直政(はなわ・なおまさ)を戦死させ、織田軍に大損害を与えた。
信長は重秀の首級と称したものをさらし首にして戦意高揚を図るなど、その武名は両軍に轟いていた。
重秀は石山に留まらず毛利家に援軍を請うため播磨へ、織田軍が雑賀衆の本拠地に迫れば紀伊へ、荒木村重(あらき・むらしげ)が織田家に反乱すれば摂津へと各戦線を飛び回った。
しかし織田軍の鉄甲船により制海権を奪われ、徐々に戦況が不利に傾くとついに石山本願寺は降伏した。この時に仲介役を務めたのが重秀だとされる。
雑賀衆は反織田と親織田に二分され、重秀は仲介を機に織田方へと傾倒した。
1582年、信長が本能寺で討たれると重秀も命を狙われ、紀伊を離れ潜伏した。
1584年、小牧・長久手の戦いで雑賀衆・根来衆の多くが徳川家康に味方する中、重秀は羽柴秀吉方についた。
翌年、秀吉が紀伊を攻めると降伏勧告の使者を務めた。その後は歴史から姿を消すが、紀伊には生涯帰らず大坂で没したと思われる。
また陽気な性格で酒色を好み若者から大いに慕われ、派手な服装を好み、魚鱗の具足に身を包みヤタガラスの旗指し物を掲げ「愛山護法」と名づけた火縄銃を携え、右肩から血を流す仏像画(重秀が負傷した時に身代わりになって血を流したという)を持ち戦に臨んだという姿は、ゲーム「戦国無双」での孫市のキャラに重なるものが多い。
鈴木重朝
紀伊の人(1561~1623)
鈴木重秀の弟、または子。
重秀が歴史から姿を消すのと入れ替わりに現れ、豊臣秀吉に仕えた。
1590年、小田原征伐では石田三成らとともに忍城を攻め甲斐姫と戦った。
1600年、関ヶ原の戦いに先立ち西軍として伏見城を攻め、守将で徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)を討ち取った。
戦後は浪人したが伊達政宗に拾われ、彼の口利きで1606年、徳川家康に仕えた。
家康は十一男の徳川頼房(よりふさ)の旗本に重朝を任じ、重朝の子孫は水戸徳川藩の家老として仕えていった。
後に重朝の子孫は姓を雑賀に改め、当主は孫一を名乗ったため代々「雑賀孫一」が生まれたという。
下間頼廉(しもづま・らいれん)
出身地不明(1537~1626)
石山本願寺の坊官。僧侶ながら知勇兼備の名将で、さらに政治面でも活躍した。
織田信長との石山合戦では雑賀孫市とともに本願寺軍の主力として戦い「大坂之左右之大将」とうたわれた。
1580年、劣勢に立たされた本願寺が勅命による講和を受け入れると、法主の顕如(けんにょ)に従い石山本願寺を退去した。
信長が没すると豊臣秀吉、徳川家康らは一向宗に派兵を要請したが、頼廉は頑として断り続け、中立を保った。
1593年、顕如の子で反体制派の教如(きょうにょ)が秀吉の命により石山から退去させられ、親豊臣派の准如(じゅんにょ)が即位すると、それに対し異議を唱えた。
秀吉は激怒したが、後に赦免すると頼廉は以降、一貫して准如を補佐したという。
1626年、90歳で没した。子孫も代々、准如の西本願寺に仕えた。
余談だがSLG「信長の野望」では当初、武力ばかり高い脳筋武将に設定されていたがシリーズを重ねるごとに智謀も高まっていき、武力は福島正則・柴田勝家にも匹敵する最高96を記録。
さらに最新作「創造」では政治も急上昇し全能力が90近いチート武将に仕上がっている。
本願寺第11世。ゲーム「信長の野望」の影響で本願寺(ほんがんじ)顕如、本願寺光佐(こうさ)の名でも著名だが、あくまで正式名として用いたのは「顕如」のみで、本願寺は姓ではなく本名も大谷(おおたに)光佐である。
1554年、父の死により12歳で本願寺を継ぎ、祖母の補佐を受けて教団を切り回した。
当時、本願寺勢力は父の代に進めてきた一向一揆が全国ではびこり、京の公家や細川家ら名門とも通じ大名にも匹敵する力を蓄えていた。
だが足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛を果たした織田信長は、僧侶が武士よりも権力を持った状態を厭い、強く迫害したため1570年、両者は激突した。
やがて信長の傀儡にされた足利義昭が全国に呼びかけ「信長包囲網」を布くと、本願寺もそれに加わり織田軍を大いに苦しめた。
しかし1573年、主力を担っていた武田信玄(ちなみに信玄の正室の妹が顕如の正室であり、顕如と信玄は義兄弟にあたる)が急死すると包囲網は崩壊し、反織田勢力は次々と駆逐されていき、1580年、朝廷の仲介により顕如は信長と和睦し、本拠地の石山本願寺を退去した。
その後、信長も没すると後継者となった豊臣秀吉と顕如は和解し、石山に戻った。
1592年に顕如は没したが、石山退去に反対した嫡子の教如(きょうにょ)ではなく三男の准如(じゅんにょ)に後を継がせたため、教如派と准如派は対立した。
1602年、徳川家康が教如に寺地を寄進したため、教如派は独立し東本願寺を建立した。
准如の率いるもともとの本願寺は西本願寺と呼ばれるようになり、21世紀の現在もなお両派は分裂したままであり、三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の力を弱めるため分裂をそそのかしたとも言われている。
岩成友通(いわなり・ともみち)
出身地不明(??~1573)
三好家。別名は長信(ながのぶ)。
出自は不明で大和や備後の生まれとされ、いずれにしろ三好家の本拠地である阿波の出身ではないと思われる。
三好長慶(みよし・ちょうけい)のもとで奉行として働き、長慶が没すると後を継いだ三好義継(よしつぐ)の後見人の一人として頭角を現し、三好長逸(ながやす)、三好政康(まさやす)とともに唯一、三好家の縁戚ではないにも関わらず「三好三人衆」と呼ばれた。
三人衆と三好家の重臣・松永久秀(まつなが・ひさひで)は将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を殺し畿内の支配権を握ったが、権力を争い対立し、三人衆は足利義栄(よしひで)を後任の将軍に担ぎ上げ、松永久秀を本拠地の大和へ追い込んだ。
だが将軍を擁立され立場を失った三好義継は、不満を抱き松永久秀のもとへ出奔した。
さらに足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)を擁立し織田信長が大軍を率い上洛を開始。三好義継と松永久秀は織田家に降伏し、反抗勢力も次々と撃破され、病弱だった足利義栄も間もなく没すると三人衆は畿内を逐われた。
この時、他の三好勢力がたやすく撃破されていく中、池田勝正(いけだ・かつまさ)と友通の居城だけは善戦しており、友通の統治能力の高さがうかがえる。
その後いったんは織田信長に降り「表裏なき仁」と評されるなど良好な関係を築きかけたが、信長と対立した足利義昭が布いた「信長包囲網」に加わって再び敵対した。
だが味方の内通により敵中に孤立し、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)の家臣と取っ組み合いの末に堀に落ち、水中で討ち取られた。
三好長逸、政康も敗走後に消息を断ち、三好三人衆は潰滅した。
三好三人衆の筆頭格。血縁は諸説あり三好長慶(ちょうけい)の従叔父とも三好政康(まさやす)の兄弟とも言われる。
長慶からは一族の年長者として信頼され、政治・軍事・外交全てに辣腕をふるった。
長慶が主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)を追放し実権を奪うと、長逸は三好軍の主力を率い細川軍や足利義輝(あしかが・よしてる)と戦った。足利義輝とは争っては和睦しを繰り返したが、和睦のたびに長逸が接待役を務めている。
1560年には三好一族や重臣の誰よりも早く従四位下に叙せられ、長慶の子・三好義興(よしおき)が京に常駐するとその留守を任されるなど、長慶の信任はますます厚くなった。
三好義興と長慶が没し、家督を長慶の甥にあたる三好義継(よしつぐ)が継ぐと、長逸は政康、岩成友通(いわなり・ともみち)ら三人衆や重臣の松永久秀(まつなが・ひさひで)とともにそれを支え、障壁となっていた足利義輝を暗殺した。
だが1566年には松永久秀と三人衆は対立し、久秀はかつて三好家によって地位を奪われた元の河内守護・畠山高政(はたけやま・たかまさ)らと結託した。
またこの頃に長逸は京を追放されたルイス・フロイスらを保護し、フロイスは著書「日本史」に「長逸は生来善良で教会の友人」「天下の4人の執政の一人で堺にきわめて豪華な邸宅を有する」などと記している。
三人衆は戦いを有利に進め久秀の居城を包囲したが、戦線が膠着するうちに、実権を三人衆に奪われていた三好義継が久秀のもとへ出奔してしまった。
勢いを得た久秀は、東大寺に布陣した三人衆を襲い、後に天下の三大悪事に数えられる大仏殿の焼き討ちを敢行し、さらに長逸の嫡子を討ち取った。
三人衆は足利義栄(よしひで)を14代将軍に就任させて後ろ盾を得たが1568年、かつて三人衆が追放した足利義昭(よしあき)を擁立し織田信長が6万の大軍で上洛を開始した。
三人衆は近江の六角義賢(ろっかく・よしかた)や紀伊の国人衆、高野山ら各地の反織田勢力と結託し防戦に努めたが、織田軍の進撃を止めることはできず、六角家は鎧袖一触で滅亡、足利義栄は重病で保護されていた四国から出ることもかなわずに急死、さらに三好義継と松永久秀は織田家に降伏と、信長はあっという間に上洛を果たし、足利義昭を15代将軍に据えると、三人衆も各個撃破した。
畿内を逐われた三人衆の勢力圏は阿波にまで後退したが1570年、摂津で荒木村重(あらき・むらしげ)が織田家に反旗を翻すと、長逸は三好家の筆頭家老・篠原長房(しのはら・ながふさ)とともに四国軍を率いて摂津に軍を進めた。
織田軍はなおも優勢だったが、石山本願寺に突如として背後を襲われ、さらに浅井・朝倉家も兵を進めたため戦況は逆転し、三人衆は摂津、河内の奪回に成功した。
しかし阿波で篠原長房が三好長治(ながはる)に殺されるなど内乱が続き、三好家は追撃に転じることができなかった。
1573年には傀儡の立場に不満を抱いた足利義昭が蜂起し、三好義継、松永久秀も加わり信長包囲網を布いたものの、上洛戦のさなかに武田信玄が急死したのを機に包囲網はあえなく崩れた。
足利義昭は追放され、三人衆の岩成友通は戦死。浅井・朝倉家も相次いで滅ぼされるともはや三好家に抵抗する力はなく、三好義継は敗死、三好政康は行方不明、三好長治は内乱で死亡、松永久秀は信長に降るもすぐに反乱して戦死と、三好家の主だった者は長慶の叔父で信長に降った三好康長(やすなが)ら数名を除き、いずれも死に絶えていった。
長逸は織田軍に敗れ摂津中嶋城から逃れ出たのを最後に消息を絶った。その際に戦死した、あるいは隠居した、捕らわれ幽閉されたとも伝わるが判然としない。