三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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赤井直正(あかい・なおまさ)
丹波の人(1529~1578)
丹波の国人衆。「赤鬼」、「悪右衛門」の異名をとった猛将。
「甲陽軍鑑」には徳川家康、長宗我部元親と並び「名高き武士」と名を挙げられている。
俳優・赤井英和は子孫である。
赤井家の次男として生まれ、荻野家の婿養子となっていたが、1554年、義父を殺害すると城を乗っ取った。
「悪右衛門」の異名はこのことから付いたとも、自称したともされる。
もう一つの異名「丹波の赤鬼」は無論、名字から来ており、同じ丹波の豪族・籾井教業(もみい・のりなり)は直正にちなんで「青鬼」と呼ばれた。
赤井家は丹波の大名である波多野家をもしのぐ勢力を有しており、直正も朝廷に忠誠を誓い、京にほど近い領地ということもあってか、前関白・近衛前久(このえ・さきひさ)の妹をめとるなど(将軍・足利家の娘をめとったとの説もあり)単なる一豪族に留まらない扱いを受けていた。
1557年、戦傷がもとで兄が亡くなると、その幼い息子の後見役として赤井家を率いることとなった。
そのため本名は荻野直正(おぎの・なおまさ)であるが、赤井姓で呼ばれることが普通である。
1558年には荒木家、1565年には兄の仇である内藤家を滅ぼし、着々と勢力を拡大した。
1570年、上洛を果たした織田信長に降伏し、本領を安堵された。
だが翌年、山名祐豊(やまな・すけとよ)に侵攻され、それを返り討ちにし山名家の居城を落としたところ、山名祐豊は信長に救援を求めた。
信長はそれに応じ、赤井直正討伐の名目で、明智光秀に丹波攻略を命じた。
明智軍は籠城した赤井軍を攻めあぐねた。さらに直正に味方する波多野秀治(はたの・ひではる)が、丹波の山深い地形を利したゲリラ戦で翻弄したため、明智軍は何度も撃破され、明智光秀自身も一時は命を落としかけたほどだった。
しかし1578年、直正が病死すると、求心力を失った赤井家は持ちこたえられず、翌年に丹波は陥落した。
数倍の兵力を擁しながら何年も攻略できなかった明智光秀は、信長に叱責され、それが本能寺の変の遠因となったとする説もある。
ちなみに明智光秀は信長の命令で、波多野家に自分の母を人質に出したところ処刑された、という話が知られているが、それは創作である。