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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―雑賀孫市  戦国最強スナイパー

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戦国列伝―雑賀孫市  戦国最強スナイパー



雑賀孫市(さいか・まごいち)
紀伊の人(??~??)

雑賀衆を率いて石山本願寺に味方し、織田信長を苦しめた。
1600年、関ヶ原の戦いに先立ち西軍として伏見城を攻め、守将で徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)を討ち取った。

孫市、または孫一は雑賀衆の頭領が代々その名を継承したもので、半ば伝説的な人物であり、雑賀鈴木家の当主である鈴木佐太夫(すずき・さだゆう)やその子の鈴木重兼(しげかね)、重秀(しげひで)、重朝(しげとも)らが名乗ったとされ、彼らの事績が混ぜ合わされて雑賀孫市が誕生したと見られる。
特に前半生は鈴木重秀、後半生は鈴木重朝の事績が色濃く、以下は両者について記す。


鈴木重秀
紀伊の人(??~??)

鈴木佐太夫の次男。病弱な長男・重兼に代わり雑賀衆を統率した。
石山本願寺に味方し織田信長と戦い、文武両道の僧兵・下間頼廉(しもつま・らいれん)と並び「大坂之左右之大将」と呼ばれた。
1575年、天王寺の戦いでは織田軍の指揮官・塙直政(はなわ・なおまさ)を戦死させ、織田軍に大損害を与えた。
信長は重秀の首級と称したものをさらし首にして戦意高揚を図るなど、その武名は両軍に轟いていた。

重秀は石山に留まらず毛利家に援軍を請うため播磨へ、織田軍が雑賀衆の本拠地に迫れば紀伊へ、荒木村重(あらき・むらしげ)が織田家に反乱すれば摂津へと各戦線を飛び回った。
しかし織田軍の鉄甲船により制海権を奪われ、徐々に戦況が不利に傾くとついに石山本願寺は降伏した。この時に仲介役を務めたのが重秀だとされる。
雑賀衆は反織田と親織田に二分され、重秀は仲介を機に織田方へと傾倒した。

1582年、信長が本能寺で討たれると重秀も命を狙われ、紀伊を離れ潜伏した。
1584年、小牧・長久手の戦いで雑賀衆・根来衆の多くが徳川家康に味方する中、重秀は羽柴秀吉方についた。
翌年、秀吉が紀伊を攻めると降伏勧告の使者を務めた。その後は歴史から姿を消すが、紀伊には生涯帰らず大坂で没したと思われる。

また陽気な性格で酒色を好み若者から大いに慕われ、派手な服装を好み、魚鱗の具足に身を包みヤタガラスの旗指し物を掲げ「愛山護法」と名づけた火縄銃を携え、右肩から血を流す仏像画(重秀が負傷した時に身代わりになって血を流したという)を持ち戦に臨んだという姿は、ゲーム「戦国無双」での孫市のキャラに重なるものが多い。


鈴木重朝
紀伊の人(1561~1623)

鈴木重秀の弟、または子。
重秀が歴史から姿を消すのと入れ替わりに現れ、豊臣秀吉に仕えた。
1590年、小田原征伐では石田三成らとともに忍城を攻め甲斐姫と戦った。

1600年、関ヶ原の戦いに先立ち西軍として伏見城を攻め、守将で徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)を討ち取った。
戦後は浪人したが伊達政宗に拾われ、彼の口利きで1606年、徳川家康に仕えた。
家康は十一男の徳川頼房(よりふさ)の旗本に重朝を任じ、重朝の子孫は水戸徳川藩の家老として仕えていった。

後に重朝の子孫は姓を雑賀に改め、当主は孫一を名乗ったため代々「雑賀孫一」が生まれたという。

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