三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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池田勝正(いけだ・かつまさ)
摂津の人(1539?~1578?)
摂津の国人衆・池田長正(ながまさ)が没すると、家督を継いだ。
長正との関係は親子とも、ただの一族だが文武両道に優れたため長正が跡を継がせたとも言われる。
当時の池田家は富に恵まれ、ルイス・フロイスは「畿内で最も卓越し、最も装備の整った兵1万をいつでも供出できた」と記している。
池田家は三好家に従属していたが1568年、織田信長が侵攻してくると抗し切れずに降伏した。
信長は勝正の武勇を気に入り、抵抗したにも関わらず加増した上で本領安堵とし、摂津守護の地位を与え和田惟政(わだ・これまさ)、伊丹親興(いたみ・ちかおき)とともに摂津を統治させた。
1569年、三好三人衆が将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)を襲撃すると、勝正はわずかな手勢を率いて救援に駆けつけ、敵陣にただ一騎で切り込む勇猛ぶりを発揮した。
翌1570年、金ヶ崎の戦いでは反乱した浅井長政に背後を襲われた織田軍の殿軍を務め、信長を無事に撤退させた。羽柴秀吉の出世試合として知られ、明智光秀も参戦していたこの戦で彼らを指揮したのが勝正である。
しかし同年6月、長正の娘婿の荒木村重(あらき・むらしげ)と長正の嫡子(勝正の弟ともいう)池田知正(ともまさ)が結託し、勝正を追放し織田家に反逆した。
異説として勝正は一族と反目した末に数人を斬り捨て出奔したともいうが、いずれにしろ池田家を離れ織田家に仕え、足利義昭と信長が敵対すると幕府に仕えるようになった。
その後、織田方に転じた荒木村重に敗北し、高野山へ追放された。
勝正は隠居したとも、旅に出て九州に渡ったとも、細川家や有馬家に仕えたとも言われ、また1574年に「池田カツマサ」なる人物が石山本願寺に協力したとする記録があり、同一人物だろうか。
池田家の史料では1578年に没した。
同年、荒木村重と池田知正は突如として信長に反旗を翻し、1年余りの抵抗の後に妻子を捨てて逃亡した。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると知正は秀吉に仕え、大名にこそ列しなかったが旗本となり、関ヶ原の戦いでもうまく立ち回り徳川家に仕えたものの、没すると2代後の当主が家臣の横領の罪で改易となり、以降の池田家が再興することはなかった。