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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―筒井順慶  2つのことわざを生む

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戦国列伝―筒井順慶  2つのことわざを生む


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筒井順慶(つつい・じゅんけい)
大和の人(1549~1584)

はじめは筒井藤勝(ふじかつ)と名乗った。
大和の大名・筒井家に生まれたが父を亡くしてわずか2歳で家督を継いだ。
死の間際、父は木阿弥(もくあみ)という自分に面差しの似た僧侶を影武者に仕立て、健在だと敵の目を欺いたといい、数年後に死が露見すると木阿弥は大名から僧侶に戻ったことから「元の木阿弥」という言葉が生まれた。

叔父の筒井順政(じゅんせい)が後見役として実質的に大名の役割をこなしたが、彼も1564年に没してしまうと、大和の覇権を争う松永久秀はすかさず筒井家を襲い、順慶は翌年に居城の筒井城を追われた。
しかし一族の布施家に身を寄せ力を蓄えると、松永久秀と敵対する三好三人衆と結び、1566年に筒井城の奪回を果たした。

1568年、織田信長が足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛すると、三好三人衆ら畿内の勢力を一掃した。
松永久秀はいち早く信長に降ったが、順慶は久秀を憎みそれに同調できなかった。
信長の後ろ盾を得た久秀は再び筒井城を奪ったが、順慶は新たな城を次々と築き、3年後には松永軍を撃破し城を奪い返した。

1571年、筒井城に落ち着いた順慶は信長に降伏した。
一方の松永久秀は足利義昭の号令に応じ信長包囲網の一角に加わるも、筒井家とは和睦し、順慶は久秀父子を招いて猿楽を催すなどしばらくは良好な関係を築いたが、それも長くは続かなかった。
順慶が一向一揆や雑賀衆との戦いに駆り出され、その功で大和守護に任じられるなど織田家での地位を固めていく中、1577年に久秀は再び信長に背いた。
順慶は松永攻めの先鋒を務め、追い詰められた久秀父子は自害。一説には久秀の遺体を引き取り手厚く葬ったとされる。

その後も織田軍として多くの戦に参陣し、手柄を立てた。
1580年には信長より本城を除く全ての城の破却を命じられ、低地にありしばしば水害に見舞われた筒井城を打ち壊し、大和郡山城を居城に定めた。
また天正伊賀の乱では織田信雄(のぶかつ)の指揮下で戦うも、伊賀衆の夜襲を受け手勢4千のうち半数を討たれた。

1582年、明智光秀は本能寺で信長を討った。
光秀は順慶が織田家に降る際に仲介を務め、教養深く親友の間柄で、縁戚関係にもあったため真っ先に味方になるよう誘ってきた。
しかし順慶は島左近、松倉重信(まつくら・しげのぶ)ら重臣と評定を重ねた末、それを拒絶した。
光秀は洞ヶ峠まで兵を進め順慶を牽制したものの、筒井軍は最後まで事態を静観し続けた。後年、順慶が洞ヶ峠まで兵を進めたが山崎の戦いを傍観したと歪曲され「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれた。

光秀は娘婿の細川家にも協力を断られ、筒井・細川ら光秀の縁戚で多くの兵力を有する彼らが参戦しなかったことで、他の大名も光秀に味方することに二の足を踏んだため、やがて「中国大返し」で全軍挙げて引き返してきた羽柴秀吉に大きく兵力差で劣ることとなり、滅亡の要因となった。

戦後、順慶は秀吉に臣従を申し出たが、参戦の遅れた彼を秀吉は叱責し、動揺のあまり病を得たと伝わる。
1584年、無理をおして小牧・長久手の戦いに出陣するも、それが祟ったか帰還後に間もなく36歳の若さで没した。

家督は男子が無かったため甥の筒井定次(さだつぐ)が継いだが、秀吉の本拠地・大坂城に隣接する所領が災いしてか、伊賀に転封させられ、徳川家康の代には難癖をつけられついに改易された。
大名家としての筒井家は滅びたが、旗本として幕末まで存続した。
なお筒井順正(じゅんせい)なる毛利家の家臣が順慶の実子とされるが、後世の人々による後付け設定と考えられる。

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