三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1559年、上洛した長尾景虎(後の上杉謙信)と意気投合し、関白でありながら謙信を助けるため越後へ向かい、上杉軍が南下すると上野・下総へまで従い、謙信が帰国しても危険を顧みず、単身で関東に残り情報収集に努めた。ちなみにその際には用いていた花押を公家様式から武家様式に改めており、前久の覚悟の程が見て取れる。
しかし1562年、武田・北条に二方面から攻められた謙信は苦戦し、行き詰まりを感じた前久は、謙信の説得を振り切り京へ帰国した。
謙信は前久の心変わりに激怒したというが、謙信の再度の上洛の準備をするための帰国という説もある。
1565年、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を暗殺した松永久秀や三好三人衆は、前久に庇護を求めた。
久秀らが前久の姉で足利義輝の妻を保護していた(人質にしていた?)ため、前久は久秀らの推す足利義栄(あしかが・よしひで)の将軍就任を認めた。
だが1568年、織田信長の助力を得て京に戻った足利義昭(あしかが・よしあき)は前関白の二条晴良(にじょう・はるよし)とともに、前久が兄・義輝の暗殺に関わっていたと疑い、朝廷から追放した。
前久は丹波の赤井直正(あかい・なおまさ)、次いで石山本願寺を頼った。この際、教如(きょうにょ 本願寺光寿)を猶子にしたり、三好三人衆の依頼を受け、石山本願寺も信長包囲網に加わるよう促したが、前久自身は信長に敵意は無く、包囲網に協力する足利義昭を信長に排除させることが目的であった。
そのため1573年、信長が足利義昭を追放し二条晴良も失脚すると、前久は再び赤井直正のもとに戻り、信長の許しを得て京に帰った。
以降は信長と親交を深めた。特に共通の趣味である鷹狩りでは、互いの成果を競い合ったという。
外交面では信長の指示を受けて九州の諸大名に和睦を結ばせたり、石山本願寺への降伏勧告を行った。10年以上にわたり頭を悩ませた石山本願寺を開城させ、法主の顕如(けんにょ 本願寺光佐)を退去させたことを信長は大いに喜び、天下平定の暁には近衛家に一国を与える約束までした。
だが1582年、武田家の征伐にあたって前久は信長に随行したが、同年に信長は本能寺で明智光秀に討たれた。
その際に明智軍が前久邸の屋根から信長軍を銃撃したため、またも暗殺への関与を疑われた前久は、徳川家康を頼り遠江に落ち延びた。
失意の前久は出家し、晩年は住職すらいない廃寺に隠棲し1612年、77歳で没した。