三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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孝蔵主(こうぞうす)
近江の人(??~1626)
豊臣秀吉の正室ねねの筆頭上臈を務めた女性。
孝蔵主は上臈としての雅名であり本名は不明。また生涯未婚だったとされる。
六角家の家臣、蒲生家に仕えた川副勝重(かわぞえ・かつしげ)の娘と伝えられる。
前半生は不明だが秀吉が関白になった頃にはすでに奥向きのことを取り仕切っており、1590年の伊達政宗に対する叛意の有無を問う詰問、1597年に慶長の役で秀吉の逆鱗に触れ移封となった小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の事務処理、謀叛の疑いを掛けられた豊臣秀次(ひでつぐ)への出頭要請などは全て孝蔵主が担当したものである。
その権勢は絶大で秀吉には「表のことは浅野長政(あさの・ながまさ)が、奥のことは孝蔵主が」とまで呼ばれた。
1598年、秀吉が没すると出家した高台院(こうだいいん ねね)に従い、各地の講和交渉や豊臣家と徳川家との折衝役などを務めた。
しかし1610年、突如として高台院のもとを離れ、徳川秀忠に仕えた。
その理由は戦国史上でも大きな謎の一つに数えられ、単純に衰退する豊臣家を見限ったとする説や、
豊臣家を牛耳る淀殿(よど)に内通を疑われ逃亡した。
孝蔵主は石田三成の縁戚にあたるが、高台院が三成と敵対した武断派と親しくし出したのに不満を抱いた。
徳川秀忠が秀吉の人質時代に、高台院や孝蔵主の世話になったため恩返しとして身柄を引き取った。
など諸説あり決着していない。
しかし孝蔵主が秀忠から直々に禄を受けたのが、高台院の一周忌明けからであり、偶然でなければなんらかの事情で高台院が関わっているのは間違いないと思われる。
1626年に没すると、実子がなかったため特例として甥の川副重次(かわぞえ・しげつぐ)が養子となり所領を継いだ。
※アイコンは孫礼
加藤清正(かとう・きよまさ)
尾張の人(1562~1611)
刀鍛冶の父が没すると、母が羽柴秀吉の母・大政所(おおまんどころ)の縁戚だったことから1573年、秀吉に小姓として仕えた。
実子のない秀吉・ねね夫妻は清正や福島正則らを我が子同然に養育し、やがて子飼いの武将として成長していった。
1582年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将を討ち取るなど大功を挙げ福島正則らとともに「賤ヶ岳七本槍」と讃えられた。
その後も多くの戦で手柄を立て1586年、肥後を治めていた佐々成政(さっさ・なりまさ)が大規模な一揆を招いたため切腹となると、北肥後に19万石を与えられ、熊本城を居城に定めた。
清正は統治にも抜群の手腕を見せ、現在の熊本の発展を築いたと言って過言ではない。
1592年からの文禄の役では先鋒として鍋島家、相良家を傘下に置き、小西行長(こにし・ゆきなが)と激しく功を争った。
行長とは領地を接し以前から犬猿の仲で、やがて戦線が膠着すると進軍を主張する清正と講和を主張する行長は意見が対立した。
秀吉が明・朝鮮に示した講和の条件は到底受け入れられるものではなく、行長は独断で和睦を進め、それに石田三成の賛成も得ると、清正を讒言し本国送還のうえ謹慎に追い込んだ。
だが行長は明には秀吉が降伏すると、秀吉には明が降伏すると詐称しており、工作が露見すると一転して窮地に立たされ、前田利家や淀殿(よどどの 秀吉の側室)のとりなしがなければ処刑されるところだった。
ちなみに京で蟄居していた清正は伏見の大地震の際に秀吉のもとへ駆けつけたことで赦免されている。
1597年、慶長の役でも清正と行長は先鋒を務めた。
先の和睦工作の責任から手柄を立てるよう命じられていた行長は、明・朝鮮軍に清正の上陸予想地点を密告し討たせようとしたが、敵将の李舜臣(りしゅんしん)はこれを罠だと疑い兵を動かさなかった。
築城の名手として知られる清正は前線に城を築いていたが、そこに5万7千もの明・朝鮮軍が攻め寄せた。清正はわずか5百の手勢で籠城し、兵糧も乏しく城も未完成のなか10日間にわたり耐え抜き、援軍が駆けつけると逆襲に打って出て敵軍に死傷者2万もの大損害を与えた。
清正は朝鮮の人々から鬼(幽霊)と恐れられ、現地では虎を殴り殺したという伝承が残る。(もともとは黒田家の逸話だが、畏怖された清正の逸話へと変わったという)
1598年、秀吉が没すると徳川家康は無断で有力大名と血縁を結び、清正も家康の養女を継室として迎えた。
翌年、前田利家も亡くなると清正ら武断派と石田三成ら文治派の対立は深刻化し、ついには福島正則らとともに三成の暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは三成への反発もあり東軍につき、黒田如水らとともに西軍方の勢力と戦った。
小西行長は西軍につき本戦でも奮闘するも、敗北し処刑され、彼が治めていた南肥後は清正に与えられ52万石に加増された。
またこの時、立花家の旧領を通過しようとするも、立花道雪(たちばな・どうせつ)の娘(立花誾千代)が兵を集めており、領民もよく懐いていると聞くとあわてて道を変えた、という逸話が残るが伝承の域を出ない。
その後は一時の泰平を得た世で肥後の発展に尽くし、幕府に請われて各地に城を築いた。
また徳川家と豊臣家との仲を取り持ったが1611年、家康と豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)の会見を斡旋し帰国中の船内で急死した。享年50。
2年後に清正と並ぶ豊臣家の有力者だった浅野幸長(あさの・よしなが)が同じ病で没し、さらに池田輝政(いけだ・てるまさ)も急死しており、一連の死は家康による毒殺説も根強い。
家康と秀頼の会見の際、家康は遅効性の毒を仕込んだ饅頭を差し出し、徳川家の平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)がそれを毒味して見せたが、清正は意図を察すると秀頼の横から饅頭を取り、会見後に二人は急死した、という逸話が歌舞伎の題材にもなっている。
長男・次男は早逝していたため三男の加藤忠広(ただひろ)が11歳で家督を継いだ。
しかし幼君を抱えた家臣団は権力争いに励み、ついには改易された。理由として忠広の子・加藤光広(みつひろ)が徳川幕府転覆を誓う諸大名の名前を連署した「ぼくの考えた謀叛の連判状」を作ったため、とも言われている。
加藤家の改易後、肥後に入った細川忠利(ほそかわ・ただとし)は清正の霊をうやうやしく祀った。
領民も佐々成政の切腹を招くなど荒れに荒れていた肥後を安定させ、21世紀の現在も参考にされるほど優れた建築・治水技術を持ち、工事の際には農閑期に手の空いた人々を老若男女を問わず集め、無理なく働かせ給金も多く支払った清正を慕い、やがて神格化され民間で信仰されていったという。
細川忠興(ほそかわ・ただおき)
京の人(1563~1645)
細川藤孝(ふじたか)の子。正室は細川ガラシャ。忠興の「忠」は父が仕えた織田信忠(おだ・のぶただ)からの偏諱である。
父ははじめ足利将軍家に仕えていたが、将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が織田信長に追放されると織田家に鞍替えした。
1577年、元服前の15歳で、後に岳父となる明智光秀に従い初陣を飾った。
信長からも将来を見込まれていたようで、光秀の三女・玉子(たまこ 後のガラシャ)をめとった際、九曜の紋を細川家の家紋とするよう命じたが、これは以前、信長の脇差しの柄に描かれた九曜の紋を忠興が気に入っていたのを覚えていたためとされる。
また1581年の京都御馬揃えにも19歳の若さで参加を許され、その際に信長が着た小袖は、忠興が献上したものだという。
だが1582年、光秀は本能寺で信長を暗殺した。
光秀は婿の忠興父子を傘下に置こうとしたが、父子はこれを拒絶し、藤孝は信長に弔意を表し剃髪した上に隠居し細川幽斎(ゆうさい)と号した。
さらに玉子(ガラシャ)を反逆者の一族として幽閉したため、光秀が味方に見込んだ筒井順慶(つつい・じゅんけい)らも様子見に回ってしまい、思うように戦力を集められなかった光秀は、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉軍に敗れ戦死を遂げた。
その後は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、九州・小田原征伐、文禄の役などで忠興は主力の一角を担った。
1595年、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が切腹を命じられると多くの大名が連座して処罰を受け、細川家も秀次に多大な借金があったため嫌疑をかけられたが、家老の松井康之(まつい・やすゆき)が奔走し秀吉へ返済し、事なきを得た。
この時に多くの金子を用立てたのが徳川家康で、以降は徳川家との仲が親密となった。
また松井康之は秀吉に手腕を見込まれ18万石で大名に取り立てようと誘われたが、細川家の家臣だからと断ったという。
1598年、秀吉が没すると石田三成ら文治派と忠興・加藤清正・福島正則ら武断派の対立が深刻化し、忠興らが三成の屋敷を襲撃する事態にまで発展した。
三成は盟友・佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の助けで脱出したが、両陣営は決裂し1600年、ついに関ヶ原の戦いを招いた。
忠興は豊臣恩顧の外様大名の中でも有力株で、また父や妻が京におり、家康の東軍につけば三成率いる西軍にすぐさま人質に取られる立場だったため去就が注目されたが、いち早く東軍につくと表明したため、豊臣恩顧の多くの大名が後に続いたという。
ガラシャは人質に取られようとしたが拒絶し自害したため、他の大名の妻子たちもそれに続く姿勢を見せ、西軍は思うように人質が取れなくなった。
また父の幽斎も城を西軍に囲まれたが、日本一の文化・教養の知識を持つ幽斎を惜しんだ朝廷が勅命で停戦を命じ、幽斎を保護させた。
豊後の細川領ではかつて同地を治めた大友義統(おおとも・よしむね)が残党を率いて決起したものの、松井康之と有吉立行(ありよし・たてゆき)が防戦し、やがて黒田如水の援軍が駆けつけると大友軍は撃破された。
このように開戦前後で細川家は多くの目覚しい働きを見せ、本戦でも忠興は西軍主力とぶつかり136もの首級を挙げ勝利に貢献し、戦後には3倍もの加増を得た。
1615年、大坂夏の陣にも参戦した。
1620年、三男の細川忠利(ただとし)に家督を譲り58歳で隠居し、83歳で没するまで悠々と暮らした。
~天下一短気な男~
豊臣・徳川政権を通じて武断派の外様大名の代表的存在として知られる。
非常に気が短く「天下一の短気」と記されたり、若い頃には明智光秀に「降伏してくる者をむやみに殺すな」とたしなめられた。
その苛烈な性格は身内にも容赦なく、父の幽斎が関ヶ原の戦いに際し居城を大軍に囲まれ、勅命で明け渡したことにも腹を立て、一時は絶縁状態となった。
また妹が嫁いだ一色家を騙し討ちの末に敗残兵を皆殺しにし、出戻った妹の細川伊也(いや)には短刀で斬りつけられ、すんでのところで致命傷は避けたものの鼻に大きな傷が残ったという。
なお伊也も後に再嫁すると夫に「足を揉んでくれ」と頼まれたのに怒り実家に帰ったりと、兄譲りの気性の激しさである。
また長男の細川忠隆(ただたか)は、ガラシャが自害した際に忠隆の妻は無事に逃がされたと聞き激怒した忠興に離縁を命じられたが、それを断ったため廃嫡された。忠隆は後に妻を連れ祖父の幽斎のもとで隠居したという。
次男の細川興秋(おきあき)は忠隆の養子になっていた時期があったため、同じく忠興に疎まれた。家督は三男の細川忠利に譲られると決まり、代役で人質に出されるところを出奔し、浪人となった末に豊臣家に仕えた。
大坂の陣の後、家康は興秋を無罪としたが、忠興は自害を命じたという。
妻のガラシャとは仲睦まじく、戦国一の美男美女の夫婦と呼ばれた。
だが忠興は妻をひと目のぞき見した植木職人を殺すほど嫉妬深く、文禄の役で渡海した折に家に出した手紙では「秀吉に誘われても断れ」と繰り返し書いていたという。
だがガラシャが息子の病気に悩みキリシタンに改宗すると忠興は激怒し、ガラシャの侍女の鼻を削いで棄教を迫り、夫婦の仲は急速に冷えた。
それでもガラシャが自害すると、無事に逃げおおせた長男の嫁に離縁を命じるなど、行き過ぎとはいえ愛情は変わりなかったようだ。
むろん家臣にも過酷で、隠居後には家督を継いだ細川忠利の家臣を呼びつけ、働きが悪いと難癖をつけては次々と自ら首を刎ねた。
その数36人に及ぶと、三十六歌仙にちなみ愛刀を「歌仙兼定」と名づけたという。(その他にも忠興が自ら斬った相手にちなんで名づけた刀が数振り伝わっている)
一方で「利休七哲」に数えられるほど千利休の高弟として名高い文化人で、父にも劣らぬ教養を身につけていた。
その才能は幅広く、茶器や具足、刀を自ら考案した。また文化を通じ多くの大名や公卿と交流し、居ながらにして天下の情報を集めたという。
これでも晩年は角が取れ、穏やかな性格になったというがどこまで本当かは定かではない。
ネット上で「天下一のヤンデレ」「戦国DQN四天王」と揶揄されるのも仕方ないだろう。
曽呂利新左衛門(そろり・しんざえもん)
出身地不明(??~??)
豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。落語家の始祖とされ、半ば伝説化した人物で実在も疑わしく、没年すら1597年から1642年まで諸説あるほど、その事績は判然としない。
織田信長に仕えた金森長近(かなもり・ながちか)の弟で、やはり落語家の始祖といわれる安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)と同一人物とする説もある。
話術のほか茶道、香道、和歌に通じ、若い頃は刀の鞘職人をしていて、彼の作った鞘は刀に「そろり」と合うことから曽呂利の姓を名乗った。
本名は杉森彦右衛門(すぎもり・ひこえもん)で、坂内宗拾(さかうち・そうじゅう)の別名を用いたともいう。
時代は下り明治期、上方の噺家である猪里重次郎(いさと・じゅうじろう)は、曽呂利新左衛門の名を用いた。
二代目と偽物をかけ二世(にせ)曽呂利新左衛門を名乗り人気を博したが、彼の死後、曽呂利新左衛門の名を継ぐ噺家は出ていない。
以下、初代曽呂利新左衛門と秀吉との面白い逸話を箇条書きする。
ある時、秀吉から好きな物を褒美にやろうと言われた新左衛門は「私が用意した紙袋一つに入る物をください」と答えた。
ところが何日経っても袋は出来上がらず、不審に思った秀吉が調べさせると、新左衛門は米蔵一つが丸ごと入る巨大な紙袋をこさえており、秀吉はあわてて止めさせた。
またある時、やはり褒美の希望を聞かれた新左衛門は「今日は米を一粒、明日は倍の二粒。その翌日にはさらに倍の四粒と、倍倍していき百日間ください」と申し出た。大した量ではないと思った秀吉は請け負ったが、よくよく考えると莫大な量になることに気づき、他の褒美に変えさせた。
また別の折、例によって褒美を尋ねられた新左衛門は「毎日一度だけ、殿の耳の匂いを嗅がせてください」と言った。
魂胆がわからないまま秀吉が承知すると、新左衛門は大名が秀吉の前にいる時に限って耳の匂いを嗅いだ。
大名は新左衛門が何か告げ口をしていると思い込み、口止めのために贈り物をするようになったという。
名古屋山三郎(なごや・さんさぶろう)
尾張の人(1572~1603)
名古屋家は織田家の縁戚で、山三郎は出雲阿国をめとりともに歌舞伎の創始者とされるが、半ば伝説化した話で信憑性は乏しい。
15歳で織田信長の娘婿である蒲生氏郷(がもう・うじさと)に仕えた。
山三郎は「天下三美少年」の一人に数えられ、氏郷も初対面では少女と見誤り、嫁に取ろうと身元を調べさせたという。
槍の腕に優れ重用されたが1595年、氏郷が没すると蒲生家を去り出家した。
その後、妹婿の森忠政(もり・ただまさ)に仕えた。
美青年で教養高い山三郎は饗応役として取り立てられたが、他の2人の妹も森家の重臣に嫁ぐなど発言力を増していき、井戸宇右衛門(いど・うえもん)らに恨まれた。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、森家は真田家への牽制のため出陣を止められたが、忠政は独断で井戸宇右衛門を出撃させ、真田方の上田城を攻める徳川秀忠を援護させた。
しかし真田幸村が報復のため宇右衛門が城代を務める葛尾城を攻めると、森家に不満を持つ井戸家の家臣が城門を開き、敵兵を招き入れてしまった。
落城は免れたものの、忠政は日頃の宇右衛門の態度とあわせて失態に激怒した。
1603年、美作に転封となった忠政は、築城場所をめぐり宇右衛門と意見が対立した。
堪忍袋の緒が切れた忠政は、とうとう山三郎に刀を与え宇右衛門の成敗を命じた。
ところが山三郎は返り討ちにあい、逆に自身が斬られてしまった。宇右衛門も居合わせた森家の家臣によって討たれたが、宇右衛門の力を買っていた徳川家康はこのことに怒り、しばらく忠政の面会を断ったという。
山三郎の遺体は現場の北側に、宇右衛門の遺体は南側に葬られ、それぞれ墓標代わりに松の木が植えられた。
この二本松は一方が生い茂ればもう一方は生気を失くしを絶えず繰り返し、現在も「にらみ合いの松」として伝わっている。
本名は吉長(よしなが)だが才蔵の通称で著名。
美濃可児郡に生まれ、幼少期は寺で過ごした。宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)に槍を学んだとされる。
ある時、勝負を挑まれると才蔵は試合場に鉄砲を構えた部下10人とともに完全武装で現れた。相手が「実戦ではなく試合だ」と抗議すると「俺の試合は実戦が全てだ」と笑い、相手や局面がなんであろうと常に全力で挑む心構えを見せたという。
前半生は不確かながら、はじめは斎藤龍興(さいとう・たつおき)に仕え、斎藤家の滅亡後は柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝(おだ・のぶたか)らの間を転々としたと伝わる。
森長可(もり・ながよし)に仕えていた頃、戦場で多くの首級を挙げたため手に余り、討ち取った首を置き去りにしたが、その口に旗印にも使っていたトレードマークの笹をくわえさせ(首の切り口に差し込んだともいう)、自分の手柄だと示したため「笹の才蔵」の異名を取るようになった。
やがて羽柴秀吉の甥・三好秀次(みよし・ひでつぐ)に仕えた。
しかし小牧・長久手の戦いで秀次が徳川家康に大敗した折、徒歩で逃げている所に才蔵が馬で通りかかったため「馬をよこせ」と命じたが、才蔵は「雨の日の傘に候」と答えるや走り去ってしまい、秀次を激怒させ戦後に浪人になったという。(傘で雨を防ぐように、逃げるために馬が必要なのだという意味か)
その他、相手が秀次だと気付かず、反省して自ら三好家を去ったとも、「この敵には槍も通じない。糞食らえだ」と言ってやはり秀次を怒らせたとも伝わる。
後に佐々成政(さっさ・なりまさ)を経てようやく福島正則の家臣に落ち着いた。
1590年の北条攻め、1600年の関ヶ原の戦いでは福島軍の先鋒として活躍し、関ヶ原本戦では17の首を挙げ(ただし17は笹の葉を含ませた首の数で実際はもっと多数か)徳川家康に絶賛された。
1613年、若い頃から信仰していた愛宕権現にちなみ「愛宕権現の縁日に死ぬ」と公言していた通り、縁日に没した。
身を清め甲冑を着けて床机に腰掛けたまま亡くなったという。
生涯、一兵士にも等しい身分ながら徳川家康に賞賛されたことや、その並外れた武勇を敬われており、彼の墓前を通りかかった者は、馬を降りて礼を示したと伝わる。
脇坂安治(わきさか・やすはる)
近江の人(1554~1626)
はじめ浅井長政に仕えたが、1573年に織田信長によって滅ぼされると明智光秀の麾下に入った。
丹波攻めで「赤鬼」の異名を取る赤井直正(あかい・なおまさ)にその武勇を認められ貂の皮で作られた槍鞘を拝領し、貂の皮は以来、脇坂家の象徴として広く知られるが、これは事実ではなく家名を上げるための創作と思われる。
その後、光秀との間に確執が生まれたか、自ら志願して羽柴秀吉に仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正、福島正則らとともに活躍し「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。柴田勝家の甥・勝政(かつまさ)を討ち取ったともされる。
戦功を立て続け、1585年には淡路国洲本で3万石を与えられ、主に水軍を率いた。
文禄の役では夜襲で李洸(りこう)の5万の大軍を破ったが、功を焦って抜け駆けし李舜臣(りしゅんしん)に大敗した。
この逸話は韓国ドラマ「不滅の李舜臣」で脚色され、安治は「日本一の名将」として登場するらしいが、国益のためなら平気で事実を歪曲するかの国は流石であるし、その後の安治は命令に従って戦い、李舜臣を何度も打ち破ったという。
1598年、秀吉が没すると安治は徳川家康に接近した。
しかし1600年、関ヶ原の戦いに際しては石田三成の妨害工作を受け、やむなく西軍に加わった。
本戦では家康との内通を疑われる小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)への備えを朽木元綱(くつき・もとつな)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、赤座直保(あかざ・なおやす)とともに命じられたが、小早川秀秋はもちろん安治も家康と通じており、小早川軍が東軍に寝返るとすかさず安治も反旗を翻し、さらに朽木元綱ら三将も尻馬に乗って寝返ったため、右翼の軍勢が一斉に敵に回った西軍は抗し切れず、大敗を喫した。
だが戦後、事前に寝返りを約束していた小早川秀秋と安治は所領を安堵されたが、朽木元綱ら三将は改易となった。
1615年、長男は早逝していたため次男の脇坂安元(やすもと)に家督を譲り隠居した。
安元は大坂の陣で活躍した他、武家第一の歌人と呼ばれる教養人で、また養子に徳川家光の信任厚かった堀田正盛(ほった・まさもり)の子を迎え譜代大名に名を連ねるなど、明治を乗り越え現代まで続く脇坂家の発展に貢献した。
三好吉房(みよし よしふさ)
尾張の人(1522~1612)
豊臣秀吉の姉・ともの夫。秀吉の義兄にあたり、一族の少ない秀吉からは一門衆として重用された。
出自も旧姓も不明で、そもそも姓を持たない貧民や大工、鍛冶だったとの説もある。
はじめは秀吉から木下姓をもらった。嫡子の秀次(ひでつぐ)が三好康長(みよし・やすなが)の養子になると吉房も三好姓を名乗った。
秀次が子のない秀吉の後継者に立てられると、吉房が秀次の留守をあずかることも増えたが、器量に乏しい秀次から見てさえ吉房は頼りなく「父は年を取り衰えたようだ」と嘆く文書が残されている。
秀吉とは対照的に多くの男子に恵まれたが、次男の豊臣秀勝(ひでかつ)が24歳、三男の豊臣秀保(ひでやす)が17歳で病死し、秀次も28歳で謀叛の嫌疑を掛けられた末に切腹と、いずれも短命で没した。
吉房も秀次の罪に連座して讃岐に流罪されたが、秀吉の死後に赦免されると、子らの菩提を弔うために寺を建立し、自らも出家した。
妻のともも、夫の流罪中に出家しやはり寺院を建立している。
また立派な髭をたくわえており、大いに自慢したという逸話くらいしか無いあたりが、彼の素朴さと器量の限界を同時に物語っている。
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)
近江の人(1582~1602)
豊臣秀吉の正室ねねの兄・木下家定(きのした・いえさだ)の五男。
4歳の時、実子のない秀吉に養子として迎えられた。はじめは秀俊(ひでとし)と名乗る。
秀吉・ねね夫妻には我が子のようにかわいがられ、諸大名からも豊臣秀次(ひでつぐ)に次ぐ後継者候補と見られていた。
だが1593年、秀吉に待望の実子・豊臣秀頼(ひでより)が生まれると状況は一変する。
黒田官兵衛の提案により、実子のない毛利輝元(もうり・てるもと)の養嗣子に出されそうになるが、毛利家の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は、秀吉によって毛利家が形骸化することを恐れ、急ぎ甥の毛利秀元(ひでもと)を後継者として立てると、代わりにやはり実子のない自分が養子にもらい受けたいと申し出た。
秀吉は隆景を「日本の東は徳川家康、西は隆景に任せれば安泰だ」と評するほど信頼しており、それを認めた。
1595年、豊臣秀次が謀叛の嫌疑を掛けられた末に自害に追い込まれると、秀秋も連座して所領を没収された。
すると隆景はすぐさま隠居して自身の所領を秀秋に相続させ、さらに外様の家臣を仕えさせるなど便宜を図ってやった。
1597年からは慶長の役で一軍を率い活躍した。その際に秀吉の帰国命令を再三にわたり無視したとか、敵兵を虐殺し秀吉に叱責されたともいい、帰国すると越前北ノ庄15万石へと石高をほぼ半分に減封された。慶長の役での軽率な行動への処罰だとされるが、それを裏付ける確かな史料はなく、理由は不明である。
1598年、秀吉が没すると旧領の筑前30万石に復帰した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍で最大兵力の1万5千を率い松尾山に布陣した。
石田三成は当初、大垣城での籠城戦を企図していたが、大軍を擁する秀秋が勝手に前線に出てしまったため、やむなく関ヶ原での野戦を強いられたとする説もあり、そこから発展して秀秋の進出は籠城戦より野戦を望んだ徳川家康の意向を反映したものであるという説がある。
秀秋は戦前から家康に調略を受けており、戦端が切られても兵を動かさずに傍観した。じれた家康はたびたび内応を促す使者を送り、秀秋の陣を銃撃さえした。
戦いも後半、ようやく重い腰を上げた秀秋は山を下り大谷吉継(おおたに・よしつぐ)軍に襲いかかった。その際には寝返りに不服だった松野重元(まつの・しげもと)ら一部の兵が戦線離脱したという。
1千にも満たない大谷軍はよく健闘したものの、付近にいた脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四大名も連鎖反応して一斉に寝返ったため、全滅した。
秀秋の寝返りが決定打となり、劣勢だった東軍は逆転勝利を収めた。
戦後、西軍に与した宇喜多家の所領を受け継ぎ55万石に加増されたが、一方で長年家老を務めた稲葉正成(いなば・まさなり)が出奔するなど家臣団の間で対立があったと思われる。
そして関ヶ原の勝利の立役者となってからわずか2年後の1602年、秀秋は21歳の若さで急死した。
大谷吉継が死の間際に「秀秋は人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言い遺したことから祟り殺されたと見る向きもあるが、秀秋は十代の頃から酒色に溺れ、また養母のねねに多額の借金をするなど奢侈な生活を送っており、記録からも重度のアルコール依存症が死因と思われる。
死後、後継者がいなかったため改易となり、明治時代に幕府の許しを得て再興するまで小早川家は断絶した。
なお秀秋の死後に家臣らは関ヶ原の裏切り者として仕官に苦労したという逸話が知られるが、俗説に過ぎず平岡頼勝(ひらおか・よりかつ)などは大名にまで昇進している。
宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)
備前の人(1572~1655)
備前の大名・宇喜多直家(うきた・なおいえ)の次男として生まれる。父が病死すると11歳で家督を継いだ。
織田家に従属していたが本能寺の変が起こるとそのまま羽柴秀吉に仕え、隣国の毛利家へにらみを利かした。
元服すると秀吉に大いに気に入られ「秀」の一字を与えられ、さらに養女の豪姫(ごう 前田利家の娘)を正室に迎え一門衆に列した。
若年ながら指揮能力に優れ、また優秀な家臣団にも支えられ紀州征伐から四国、九州攻めで活躍し、1592年からの文禄の役では総大将を務めた。
秀吉からは豊臣・羽柴姓や参議の官位を与えられ「備前宰相」と呼ばれた。
1597年、慶長の役でも毛利秀元(もうり・ひでもと)とともに監軍として渡海し、帰国すると五大老に列せられた。
しかし秀吉没後の1599年、秀家の側近・中村次郎兵衛(なかむら・じろべえ)の専横に不満を募らせた戸川達安(とがわ・みちやす)らが次郎兵衛の処分を求めるも秀家はこれを拒否したため、重臣らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる「宇喜多騒動」が起こった。
次郎兵衛はもともと仕えていた前田家に逃亡し、激怒した秀家は戸川達安の暗殺を企むが、従兄の宇喜多詮家(うきた・あきいえ)が達安を匿い両者に一触即発の空気が流れた。
徳川家康は大谷吉継(おおたに・よしつぐ)と榊原康政(さかきばら・やすまさ)に調停役を命じたが収拾がつかず、政務が滞るまでに至ったため家康は強引に事を収めたが、これにより達安や詮家ら多くの家臣団が宇喜多家を去り、大きく勢力が削がれた。
同年、前田利家が没すると屋台骨を失った豊臣家は石田三成ら文治派と福島正則ら武断派の対立が深刻化し、正則らの三成襲撃事件が勃発した。秀家は佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とともに三成を救出したが、混乱の隙をつき家康が台頭していき、豊臣家と徳川家の激突は避けられない状況となった。
1600年、ついに関ヶ原の戦いが起こり秀家は西軍の副将に担ぎ上げられた。
本戦でも西軍で最多の1万7千を率い主力として奮闘したが、同じ豊臣一門の小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返り大敗を喫した。
秀家は「秀秋を叩き斬ってやる」と激怒したが、軍師格の明石全登(あかし・てるずみ)に制止されやむなく落ち延びていったという。
秀家は各地を転々とした末に島津家に流れ着き、豪姫も偽の葬儀を挙げるなど(ちなみに秀家の末子は生まれ年から逆算すると、潜伏中にどこかで豪姫と落ち合った際に身籠ったと思われる)工作したが、生存している噂が流れ、島津家も家康に降伏したため1603年、島津忠恒(しまづ・ただつね)によって身柄を引き渡された。
忠恒と、秀家の義弟・前田利長(まえだ・としなが)の懇願によって死罪は免れたが、長男・次男とともに公式記録では史上初の八丈島への流刑となった。
八丈島では前田家に戻った豪姫や旧臣の花房正成(はなぶさ・まさなり)らの援助により、没するまで50年もの長きを過ごした。
他の流人よりも厚遇されてはいたが、やはり生活は貧しく「嵐を避けて停泊した福島正則の家臣に酒を恵んでもらった」「八丈島の代官におにぎりをもらった」などの逸話が伝わっている。
1655年、84歳で死去。関ヶ原に参戦した大名の中で最も長寿で、すでに江戸幕府は4代将軍の治世であった。
家康の死後、恩赦により帰国を許されたが断ったという説もある。
~泳いで参った~
アイコンと同様にネット上では「泳ぐ人」として定着している。
きっかけは掲示板で大坂の陣について議論された際、豊臣方に全軍を統括できる有能な指揮官がいなかったことから「秀家が総大将なら勝てた」という説が持ち上がり「八丈島から泳いでこいってか」と返されたところ、秀家の妙にイケメンな肖像画に「泳いで参った」と言わせるAAが書き込まれ、人気を博したことからである。