三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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糟屋武則(かすや・たけのり)
播磨の人(1562~1601?)
姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などとも記され、名も真雄、数正、宗重、真安、宗孝と多くの別名が伝わるが年代がばらばらで、子の名乗りも混じっていると思われる。
1562年、志村家に生まれる。母は黒田官兵衛の主君として知られる小寺政職(こでら・まさもと)の妹で、武則の兄・糟屋朝正(かすや・ともまさ)を産んだ後に離縁され、志村家に再嫁し武則を産み、未亡人となると糟屋家へ再び嫁ぎ、当主となっていた糟屋朝正に武則の養育を頼んだというやや複雑な出生である。
1577年、羽柴秀吉の播磨攻めに対し糟屋家は、はじめ別所長治(べっしょ・ながはる)につき三木城に籠もり秀吉と戦うが、黒田官兵衛の説得によって寝返り、武則は秀吉の小姓頭となった。
1579年、兄の朝正が三木城攻防戦で討ち死にし武則が家督を継いだ。
1582年、本能寺の変が起こると秀吉の中国大返しに武則も従い、続く賤ヶ岳の戦いでは目覚ましい活躍を見せ、加藤清正や福島正則らとともに「賤ヶ岳の七本槍」に数えられた。
その後も小牧・長久手の戦いや九州・小田原征伐に従軍する一方で行政面にも携わり、各地で奉行や代官に任じられた。
1592年、文禄の役では同じ七本槍の片桐且元(かたぎり・かつもと)ともに目付を務め、織田秀信(おだ・ひでのぶ)を補佐した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属し伏見城攻めにも加わった。本戦では宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)のもとで戦ったとも、大坂城に残ったともされ判然としない。
敗戦後は隠居し家名の存続を図ったが翌1601年に武則が、さらに翌年に嫡子も死去したためあえなく所領没収となった。
死去の経緯には多数の異説があり、没せずに徳川家康に旗本として仕えた説や、はるか前の文禄の役から帰国後に何者かによって毒殺されたという説、後に大名に復帰するも大坂夏の陣で戦死した説と、それなりに著名な人物でありながらその最期はよくわかっていない。
蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)
尾張の人(1526~1586)父・正勝・子の三代で小六(ころく)を通称とし蜂須賀小六の名でも著名。
若い頃は木曽川の水運業を生業とし、付近の国主・豪族の間を渡り歩いたと思われる。
「太閤記」や講談などでは野盗の親分とされ、今だに広く信じられている。
生涯の主君となる羽柴秀吉との出会いは諸説あり、はじめは秀吉が正勝に仕えていたともされる。
1566年、秀吉躍進のきっかけとなった墨俣城の築城に携わり、地理を活かして美濃の攻略にも貢献した。
以降は秀吉の腹心として付き従い、1581年には播磨に5万石を与えられた。
1585年の四国攻めでは戦はもちろん戦後処理から外交まで全面的に取り仕切り、土佐の長宗我部家への抑えとして阿波一国を任されようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを望んだため、阿波は嫡子の蜂須賀家政(はちすか・いえまさ)に与えられた。
翌1586年、61歳で死去。蜂須賀家は幕末まで大名として存続し、明治期にも華族となった。
政務にもたずさわり、城を空けた秀吉の代わりに城主代行を務めたり、秀吉が関白に任じられると、朝廷との交渉や、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担った。
1593年からの朝鮮征伐へ向けて全国の交通整備を行なったときには、名護屋(現在の佐賀)から京への通行には秀吉の、京から名護屋へは豊臣秀次(ひでつぐ 秀吉の養子)の、そして大坂から名護屋へはねねの朱印状がそれぞれ必要となる体制が取られた。
そのため諸大名から一目置かれ、ルイス・フロイスら宣教師には「王妃は非常に寛大で、彼女に頼めば叶わぬことはない」と讃えられた。
豊臣家の滅亡後にも、ねねは徳川家に領地を与えられ、関白の未亡人として丁重に扱われたという。
~秀吉との仲~
ねねが秀吉の女好きに不満を抱いたため、織田信長がねねに送った仲裁の手紙が残されている。
要約すると「この前久しぶりにお会いしたが、あなたは変わらず美しかった。あなたほどの女性をないがしろにするとはハゲネズミ(秀吉)は身の程知らずだ。しかしあなたは奥方なのだから堂々として嫉妬するのはよしなさい。秀吉にもこの手紙を見せてやるといい…」といった内容で、魔王と恐れられた信長の意外に細やかな心配りが見られる。
なお秀吉の浮気性には苦しめられたが、夫婦仲はむつまじく、秀吉が関白となってからも諸大名の面前で、夫婦で尾張弁丸出しで怒鳴り合ったという逸話が伝わっている。
その後も秀吉の重要な戦には常に参加し、1585年には秀吉の後継ぎである豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)の宿老となり、長浜2万石の城主となった。
1590年には遠江掛川5万石に移され、築城の才を買われ各地の城の普請に当たった。
1595年、豊臣秀次が謀反の疑いで処刑された折にもうまく立ち回って連座を逃れ、かえって秀次の所領から8千石の加増を受けている。
1600年、徳川家康に従い、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の討伐に参加したが、石田三成が挙兵し、大軍を催して東進を開始した。誰もが徳川、豊臣のいずれにつくか迷ったが、一豊は掛川城を家康に提供し、いちはやく徳川方につくことを宣言して家康を喜ばせた。
これは事前に堀尾忠氏(ほりお・ただうじ)と進退を協議した際に、堀尾が提案したことを盗用したものとされるが、一豊の素早い決断により多くの諸大名が家康に味方したのは確かで、関ヶ原の本戦では目立った武功のなかった一豊に戦後、土佐20万石が与えられたのは、家康に高く評価されたからに他ならない。
しかし土佐は長きにわたり長宗我部(ちょうそかべ)家が治めた土地であり、旧臣たちは一豊に強く反発した。
多くの加増を受けた一豊は新規に家臣を集めなければいけなかったが、それも思うようにできず、やむなく上方から人手を募り、さらに相撲大会を口実に集めた(当時は人材登用のために行われることが多かった)長宗我部の旧臣73名を磔にして殺すなど、強硬措置を貫いた。そのため一豊は常に命の危険にさらされ、6人の影武者をつれて行動したという。
この旧臣への差別は幕末にまで続き、坂本龍馬らの決起を促す遠因となった。
1605年、60歳で没した。
余談だが、一豊は食中毒を案じて、土佐名産のカツオを刺身で食べることを禁じた。
それに対して領民はカツオの表面をあぶり、刺身ではないと主張して食べるようになり、これがカツオのたたきの起源とされる。
~妻・千代の内助の功~
一豊の妻である見性院(けんしょういん 本名は千代または、まつ)は、織田信長が馬揃え(行軍パレードのようなもの)をした際に、嫁入りの持参金(へそくりとも言われる)で夫のために名馬を買ってやり、目立った一豊は名を知られるようになった、という逸話がよく知られている。
特に戦前の教科書で、日本女性のあるべき姿として採り上げられ著名である。
また真偽は不明だが、千代紙の由来ともされる。
大野治長(おおの・はるなが)
摂津の人(1569~1615)
豊臣家の重臣。
豊臣秀吉の側室・淀殿(よどぎみ)の乳母である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の子にあたることから、秀吉に馬廻衆として取り立てられた。
秀吉の死後は遺児の豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に仕えたが、1599年に徳川家康を暗殺しようとした嫌疑をかけられ、流罪となった。
1600年、関ヶ原の戦いで家康陣営に加わり、戦功を認められて罪を許された。
戦後、「豊臣家への敵意はない」という家康の書簡をあずかり、豊臣家への使者を務め、そのまま大阪城に残った。
1614年、片桐且元(かたぎり・かつもと)が家康との内通を疑われ追放されると、乳兄弟の淀殿の寵愛を受けた治長は、豊臣家の筆頭的な地位となった。
あまりに重用されたことから、豊臣秀頼の父は秀吉ではなく治長であるという噂も流れたが、証拠はなく風説の域を出ない。
1614年からの大阪の陣では、主戦派の大野治胤(おおの・はるたね)ら弟らとは逆に、家康との和睦の道を探ったが果たされず、1615年、大阪夏の陣で敗れると、秀頼の正室で、家康の孫でもある千姫(せんひめ)を使者に、自身の切腹を条件に秀頼・淀殿母子の助命を嘆願したが許されず、秀頼らとともに自害した。
出自は判然とせず、近江で生まれたとも、遠く九州は豊後で生まれたとも、本願寺の血縁だとも、はては豊臣秀吉の隠し子だとさえささやかれる。
1577年、秀吉の中国攻めの頃から家臣の一人として名前が見え始める。
次第に頭角を現し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いにも従軍し、柴田勝豊(しばた・かつとよ)を内応させ、戦場でも石田三成とともに加藤清正ら賤ヶ岳七本槍に準ずる活躍をしたという。
1585年には刑部少輔に任官され、大谷刑部の名でも知られるようになった。
また堺の奉行や、九州征伐では兵站を、朝鮮出兵では指揮も石田三成とともに任せられ、親交を深めた。
吉継の手腕は並外れており、まるで自分の指のように家臣を操り、秀吉は「百万の兵を率いさせてみたい」と嘆息したという。
一時期、吉継が辻斬りをしているという噂がまことしやかに広められたが、秀吉の信頼はいささかも揺るがなかった。
1598年、秀吉が没し徳川家康が台頭すると、吉継はよしみを通じ、豊臣家との間を調停して回った。
しかし1600年、家康が会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の征伐に赴くと、吉継は石田三成に派兵を促したが、三成は家康に対して挙兵することを打ち明け、吉継も親友のために三成の西軍に加わった。
吉継は居城の敦賀城に戻ると、丹羽長重(にわ・ながしげ)ら周囲の大名を説得して西軍につけ、精強で知られた水軍で金沢を急襲するとの噂を流し、前田利長(まえだ・としなが)軍を破った。
この頃、吉継はハンセン病とされる重病に侵され、失明し歩くこともできなかったが、戦場では輿に乗って采配を振るった。
関ヶ原の本戦では指揮能力を見込まれ、率いる部隊には戸田勝成(とだ・かつしげ)、平塚為広(ひらつか・ためひろ)らの諸隊が加わり連合軍の様相をていしていた。
吉継は朽木元綱(くつき・もとつな)、脇坂安治(わきさか・やすはる)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、赤座直保(あかざ・なおやす)らいちおう西軍に与しながらも、東軍に通じている気配の濃い諸大名ににらみを利かせつつ、西軍の主力として藤堂高虎(とうどう・たかとら)、京極高知(きょうごく・たかとも)を相手に奮戦した。
しかし正午過ぎ、松尾山に布陣する小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)軍1万5000が東軍に寝返り、吉継を攻撃した。
小早川軍の裏切りを予期していた吉継は、わずか600の手勢と、前線から呼び戻した戸田・平塚の両隊で迎え撃ち、10倍以上の相手を松尾山へ押し戻した。この反撃で家康から小早川秀秋への目付役に付けられていた奥平貞治(おくだいら・さだはる)を討ち取っており、本陣まで肉薄していたと思われる。
だが小早川軍に備えていた朽木、脇坂ら4大名の諸隊も東軍に寝返り、吉継を包囲すると、もはや打つ手はなかった。
戸田、平塚両名は討ち死にし、吉継も切腹して果てた。享年42歳。
吉継の戦死を契機に西軍は潰走を始め、関ヶ原の戦いは終わりを告げた。
~石田三成との友情~
関ヶ原の戦いの前までは、吉継は徳川家康と親しく付き合っており、会津征伐の後には12万石を与えることまで約束されていた。
だが三成との友情を重んじ、不利な戦いに身を投じた理由として、次の逸話がよく知られている。
吉継は当時、前世からの因縁とされていた重病を患い、顔は膿みただれてしまい、常に白い布で覆い隠していた。
茶会の折、一つの茶碗を飲み回していたが、誰もが病気の感染を恐れて、吉継が口を付けた後の茶碗を嫌い、飲むふりで済ませていた。
しかし三成だけは平然とその茶を飲み、吉継にも親しく話しかけたため感激したという。
一説によると吉継が飲んだ際に、膿が茶の中に落ちてしまったが、三成はそれを平然と飲み干すと、次の者のために代わりのお茶を要求したとも言われている。(三成ではなく豊臣秀吉であったともされる)
いずれにしろ官僚肌で冷淡な印象の三成らしからぬ行いであり、二人の間の親密さがうかがい知れる。
播磨の大名・小寺家の重臣である黒田家の嫡男として生まれる。主君の姓を与えられ小寺孝高(こでら・よしたか)と名乗った。
家督を継ぐと姫路城を任され、かつて妹夫婦を殺した赤松政秀(あかまつ・まさひで)が3000の兵で攻め寄せると、それを300の兵で撃退した。
小寺家は畿内で勢力を伸ばす織田信長、中国の雄・毛利輝元(もうり・てるもと)の二大勢力に挟まれていたが、孝高は信長の才覚を認め、羽柴秀吉の仲介を得ていちはやく臣従させた。
1576年、信長のもとから毛利家に逃れた征夷大将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は、毛利の水軍5000で小寺家を攻めさせた。しかし孝高はこれも500の兵で退けた。
秀吉が中国征伐を命じられると、孝高は姫路城を提供した。
ところが1578年、小寺家の盟友・別所長治(べっしょ・ながはる)が反旗を翻し、毛利、宇喜多、雑賀衆と連動して秀吉を攻撃した。
宇喜多直家(うきた・なおいえ)らの水軍7000以上を、孝高は1000の兵で退けたが、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)も謀反を起こすと、信長は秀吉軍を撤退させた。
孝高の主君・小寺政職(まさもと)も謀反に加わろうとしたため、孝高はまず旧知の荒木村重を説得し、反乱軍を切り崩して小寺政職を翻意させようと考えた。
しかし荒木村重は孝高を捕らえると、狭い土牢の中に監禁してしまった。
信長は孝高が帰ってこないため裏切られたと激怒し、人質として預っていた息子の黒田長政(ながまさ)を殺そうとした。
しかし秀吉の腹心・竹中半兵衛が身代わりを用意して長政をかくまったため、事無きを得た。
1年後、城が陥落し孝高も腹心の栗山利安(くりやま・としやす)に救出されたが、長い虜囚生活で左脚を患い、馬に乗れず歩行も不自由になってしまった。
1580年、離反した別所長治、小寺政職は討たれ、孝高は黒田孝高と名乗るようになった。
秀吉は姫路城を返そうとしたが、孝高は「姫路城は播磨を統治するために欠かせない」と断り、以降は秀吉の参謀として働くようになった。
孝高は息子の命を救ってくれた竹中重治に感謝し、竹中家の家紋を黒田家の家紋として用い、竹中半兵衛とともに「両兵衛」と並び称された。
中国攻めで孝高は「鳥取の渇え殺し」と恐れられた鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めを献策し、優勢に戦いを進めさせた。
しかし1582年、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、秀吉軍は窮地に陥った。
秀吉は大恩ある信長の死を悲しみ、茫然自失のていだったが、孝高は「御運が開けましたな。天下を獲る好機です」と励ました。その言葉で秀吉は我に返ったが、孝高の野心を感じ、以降は警戒するようになったという。
孝高は毛利方にまだ信長の死が伝わっていないことを利用し、包囲していた備中高松城を守る名将・清水宗治(しみず・むねはる)の切腹を条件に和睦を受け入れると、全軍を率いて畿内に引き返した。
後に「中国大返し」とうたわれた迅速な行軍により、秀吉軍はわずか10日で山崎に戻り明智光秀と対峙した。
光秀の備えは整わず、池田恒興(いけだ・つねおき)ら畿内の織田勢力と合流した秀吉軍が、圧倒的有利に立っており、光秀はあっさりと敗れ去り、三日天下に終わった。
孝高は柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、四国、九州征伐でも主力として戦い、外交戦略では戦わずして毛利家、宇喜多家を味方に取り込んだ。
九州平定後には豊前13万石を与えられ、佐々成政(さっさ・なりまさ)の失政が招いた大規模な一揆を鎮圧するなど、九州の不穏な勢力ににらみを利かせた。
1589年、隠居して黒田長政に家督を譲り、黒田如水と名乗った。
だがその後も秀吉の側に仕え、小田原征伐では北条氏政(ほうじょう・うじまさ)父子を説得して開城させ、朝鮮出兵では総大将・宇喜多秀家(ひでいえ)の軍艦として実質的に采配を振るうなど、第一線で戦い続けた。
一方で秀吉は如水への警戒を怠らず、謀反を恐れ重臣としては異例なほどに低い石高に抑えていた。(竹中半兵衛も同様に石高は低かった)
ある時、秀吉は「わしの死後に天下を治めるのは誰か」と問うた。周囲の者は徳川家康や前田利家の名を上げたが、秀吉は一顧だにせず「違う。如水だ。奴がその気になればわしが生きている間にも天下を獲れる」と言った。
「黒田様は10万石にしか過ぎませんが」と納得しないと、秀吉は「如水に徳川や前田のように百万石を与えたら、たちまち天下を獲るだろう」と答えた。
それを伝え聞いた如水は、すぐに剃髪して出家し、野心のないことを訴えたという。
また、秀吉の居城が地震で倒壊した際、見舞いに駆けつけた如水に秀吉は「わしが死ななくて残念だったな」と皮肉を浴びせたという。
1598年、秀吉が没すると、如水は伏見に戻り、混乱を未然に防ぐ一方で情報を集めた。
大乱が起こることを察知し、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)に乱に備えるよう助言した書状が残っている。
はたして1600年、徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いが起こった。
黒田長政は家康の養女をめとっていたことから東軍に与し、豊臣恩顧の大名を次々と東軍に付け、自身も主力として戦った。
九州にいた如水は張り巡らせていた情報網からいちはやく三成の挙兵を知ると、惜しげもなく蔵を開いて蓄えをばらまき1万近い兵を雇った。(およそ30万石の大名の兵力に相当する)
没落していた大友義統(おおとも・よしむね)が毛利家の援助を得て豊後に攻め寄せたが、如水は即席の軍でそれを打ち破り、加藤清正、鍋島直茂(なべしま・なおしげ)と合流し次々と城を落とした。
関ヶ原から引き上げてきた島津義弘を破り、不敗をうたわれた立花宗茂(たちばな・むねしげ)も降し、九州の北部をほぼ手中に収めた。
4万に膨れ上がった黒田軍はついに島津義久(しまづ・よしひさ)と対峙し、九州平定も目前に見えたが、家康は島津家と和睦し、停戦を命じたため如水の野望もついえた。
戦後、黒田長政は勲功第一として大幅な加増を得た。家康は長政の右手を握ると「徳川家の末代まで黒田家を手厚く扱おう」と激賞した。
感動した長政が父にそのことを伝えると、如水は「右手を握られている間、お前の左手は何をしていた」と冷たく言った。空いている左手でなぜ家康を刺さなかったと聞いたのである。
そして「関ヶ原の戦いが長引けば、その間にわしが九州を手に入れ、中国・四国へと攻め上がり、西国を治めじっくりと天下を狙えた。お前を天下人にしてやれたのに、勲功第一などと余計なことをしおって」と毒づいたという。
如水も加増を提示されたが、辞去すると九州にこもり、以降は表に出ることはなかった。
そして1604年、天下の望めないこの世に用はないと言わんばかりに59歳で死去した。
晩年は家臣団に冷たく当たるようになった。息子の代になって、自分が生きていた頃を惜しませないために、わざと嫌われるようにしたのだという。
だが跡を継いだ長政もやはり父譲りの癖のある人物らしく、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)ら多くの家臣が出奔している。
また度を超した倹約家としても知られ、家臣への褒美代わりに身の回りの物を安く売り渡していたというが、これも褒賞を与えれば家臣の間でひいきを感じて、結束が弱くなるという考えに基づいたもので、前述したように関ヶ原の戦いでは蔵を開いて蓄えを放出しており、その際に何度も金をもらいに来た強欲な者にも、笑って何度でも金を渡したという。
最後に、いかにも如水らしい辞世の句を紹介したい。
「おもひをく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて(死ぬにあたって思い残すことも、言い残すことも特に無い。道に迷うことは無い。成るように任せるだけだ)」
美濃斎藤家に仕えた竹中家に生まれる。まるで婦人のような容貌で、物静かな性格だった。
1560年に家督を継いだ頃から、今川義元を破った織田信長が美濃への侵攻を開始した。
よく防いでいた斎藤義龍(さいとう・よしたつ)が1561年に没すると、跡を継いだ斎藤龍興(たつおき)は若く、軍才にも恵まれなかったため、次第に信長軍に押し込まれるようになってきた。
それでも重治の奇策でなんとか食い止めていたが、斎藤龍興は政務を顧みず酒色におぼれ、一部の側近だけを重用し、重治や安藤守就(あんどう・もりなり)ら美濃三人衆を冷遇していた。
業を煮やした重治らは1564年、弟・竹中重矩(しげのり)の病気見舞いと称して稲葉山城に入ると、密かに武装しわずか16人で城を乗っ取ってしまった。
重治は行いを改めるよう求めたが、龍興は改心しなかった。重治は信長からの開城要求も断ると、半年後に龍興に城を返還し、斎藤家を去った。
浅井長政の客将として一年余り過ごしたが、やがて21歳の若さで隠居してしまった。
1567年、斎藤家を滅ぼした織田信長は、重治を召し抱えたいと考え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)を派遣した。秀吉は三顧の礼で重治・重矩の兄弟を迎え入れた。
1570年にかけて、征夷大将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が信長包囲網を敷くと、その一角を担った浅井家に向け、重治はかつての人脈を活かし調略活動を行い、いくつもの城を寝返らせた。
浅井家が滅びると、秀吉は一国一城の主となり、その頃から重治は秀吉の与力に付けられた。
中国征伐を命じられた秀吉に従い、軍師として策を立て、また多くの城を内応させた。
荒木村重(あらき・むらしげ)が謀反を起こし、説得に向かった黒田孝高(くろだ・よしたか)が捕らえられると、信長は黒田孝高も寝返ったと考え、その息子を処刑しようとした。
すると重治は偽の首を用意して孝高の息子をかくまい、それに感激した孝高は恩を忘れまいと、竹中家の家紋をもらい受け黒田家の家紋とした。
救出された孝高も後に秀吉の家臣となり、孝高の通称・黒田官兵衛にちなみ、重治と孝高は「両兵衛」と並び称された。
1579年、三木城の包囲中、重治は病に倒れた。
秀吉は重治を京に帰し療養させたが、武士ならば戦場で死にたいと重治は前線に戻り、陣中で死去した。
享年36歳。死因は肺病と見られる。
死の前に重治は、三木城攻略のために兵糧攻めを提案しており、それによって三木城は落ちた。
わずか16人で城を占拠した天才軍師ぶりと、早逝したことを惜しまれたためか、民衆に人気があり、江戸時代に講談で盛んに語られ、多くの逸話が作られた。
それが史実と入り交じってしまったため、重治の正確な事績は判然としないが、事実と思われることを見ただけでも、その傑出した才知は明らかである。
秀吉は絶大な信頼を寄せる一方で、重治や黒田孝高の頭脳を恐れ、実権を持たせないために少しの禄しか与えなかったという。
ある日、秀吉は鷹狩りの帰りに観音寺に立ち寄ると、のどの渇きを覚え茶を所望した。応対した小坊主はまず、ぬるめの茶を大きな茶碗に注ぎ差し出した。
おかわりを頼むと、今度は熱めの茶を小振りな茶碗に入れてきた。もう一杯頼むと、熱い茶を小さな茶碗で出した。
最初はのどの渇きを癒すためにぬるくし、それから先は徐々に熱くして茶の味を楽しませようと考えたのだと感心し、秀吉はその小坊主をすぐに召し抱えた。それが三成だというのだが、この逸話は当時の史料には見当たらず、後世の創作と思われる。
1582年、織田信長が本能寺で暗殺されると、その仇を討った秀吉が次の天下人として台頭し、三成も側近として頭角を現していった。
柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)ら「賤ヶ岳七本槍」にも劣らない活躍を見せ、九州征伐では兵站を担当し、内政でも全国の検地や、堺奉行として辣腕を振るった。
特に困難と思われた九州征伐を短期間で成し遂げられたのは、三成らの働きが大きかったという。
1586年頃には知行の半分(2割とも言われる)を分けるという破格の待遇で島左近を招き、後に佐和山19万石を与えられると「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」とやっかみ半分でうたわれた。
九州平定後には博多奉行として、全国制覇の後には奥州の検地奉行を務めるなど、秀吉の信頼は絶大だった。
小田原征伐の際には、甲斐姫(かいひめ)のこもる忍城を水攻めするも、小田原城の陥落後も落とすことができなかったのが、唯一のつまずきだろうか。
1592年、文禄の役では大谷吉継(おおたに・よしつぐ)、増田長盛(ました・ながもり)とともに総奉行を務めた。
戦況が不利になると、明との講和交渉を担当し無事に退却させたが、本国に残った秀吉との連絡役だったことで、頭ごなしに命令をされていると感じた加藤清正、福島正則らは三成に反発するようになった。
この頃から三成は秀吉の片腕と見なされ、諸大名から一目置かれるとともに機嫌を損ねたらただでは済まないと恐れられており、権力を得た三成も次第に傲慢になっていた。
後方支援を担当し前線に出ない三成と、加藤清正ら武断派の間にあつれきが生じるのは当然だが、先の忍城攻めで失敗していたことで(しかも女に負けている)反感を買っていたのかも知れない。
1595年、秀吉の跡継ぎと目されていた甥の豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)を謀反の嫌疑で糾弾し、最後には切腹させた。
多くの家臣が連座して切腹・改易を命じられたが、諸説あるものの豊臣秀次に謀反の意志はなかったと言われ、またいったんは出家することで許しておきながら改めて切腹を命じ、しかも一族郎党に類を及ぼし首を晒すという非道な行いは、諸大名を動揺させ、豊臣秀次への尋問を担当した三成への反発を強めた。
後の関ヶ原の戦いの際には、この時処罰され、あるいは秀吉の不興を買った大名のほとんどが徳川家康方についている。
同年、蒲生氏郷(がもう・うじさと)を毒殺したともささやかれるが、発病した時には三成は朝鮮におり、これは濡れ衣だろうと思われる。
一方で1596年、京都奉行になりキリシタン弾圧を命じられた時には、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉をなだめて処刑を思いとどまらせようともしている。
1597年、慶長の役では九州に残り後方支援を担当した。秀吉は筑前などの33万石を与えようとしたが、三成は「自分が九州の大名になっては、大坂で行政をする者がいなくなる」と大幅加増を断った。
その後、朝鮮への大規模な出兵の大将を務めることが内定していたが、1598年に秀吉が没して立ち消えとなり、三成は明との講和と全軍撤退のために奔走した。
秀吉の死後、次の覇権を狙う徳川家康は、加藤清正、福島正則らと無断で縁戚関係を結んでいった。
三成は前田利家(まえだ・としいえ)とともに「秀吉がかつて布告した無断縁組禁止に反する」と家康を弾劾し、裏では家康暗殺を企んだ。
家康もまだ時期尚早と謝罪し、三成らと和睦したものの、前田利家が亡くなると、再び蠢動を始めた。
一方で専横を強める三成と対立する加藤清正、福島正則ら武断派は、大坂の三成の屋敷を襲撃した。
佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の助けを得て脱出したものの、五奉行からの引退を余儀なくされた。
三成と加藤清正らの間を仲裁した家康はますます勢力を強め、婚姻や領地の配分を勝手に推し進めた。
1600年、三成は上杉家の家老・直江兼続とともに打倒家康の策を練った。
会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が家康に宣戦布告し、家康は諸大名を従えて討伐に向かった。
三成のもとにも親友の大谷吉継が派兵を催促に来たが、三成は家康討伐を唱えた。大谷吉継ははじめは不利を訴え反対したものの、押し切られて協力を誓った。
その際には「君は横柄で傲慢だと上は大名から下は百姓にまで噂されていて人望がない。君が表に出れば豊臣家を守ろうとする者まで家康のもとに去ってしまうだろう。だから毛利輝元(もうり・てるもと)を大将に、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)を副将に立て、君は影に徹するといい」と親友らしい辛辣かつ的確な助言をし、三成もそれに従ったという。
三成は兄・石田正澄(いしだ・まさずみ)を奉行として近江に関所を作り、会津討伐に加わろうとする西国の大名を押しとどめ強引に陣営に組み込んだ。
さらに諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、それに反発するものの手引きで逃げられたり、細川忠興(ほそかわ・ただおき)の妻・ガラシャには拒絶された挙句、屋敷に火を放って自害され、断念せざるを得なかった。
毛利輝元を総大将として担ぎ出すことには成功し、鳥居元忠(とりい・もとただ)の守る伏見城を落としたが、家康軍の帰還が予想よりも早く、地盤固めはうまく行かなかった。
当初は美濃・大垣城での籠城戦を目論んでいたが、西軍で最も多い1万5千を率いる小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が松尾山に布陣したまま動かず、やむなく関ヶ原で野戦を挑んだ。
家康の東軍は、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)が真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村に足止めされて到着しておらず、兵力では西軍に劣っていた。
陣形も東軍を包み込むように構え、形勢有利だったが、西軍の多くの大名は家康と内通しており、積極的に動こうとはしなかった。
序盤戦で軍師の島左近が負傷(戦死とも言われる)して戦線離脱し、主力の小早川秀秋が裏切り、それに連動して右翼の諸隊がこぞって東軍に寝返ると、もはや勝機はなかった。
大谷吉継は戦死し、西軍は潰走し三成も命からがら逃走した。
3日後には三成の居城、佐和山城が陥落し、父や一族の多くが討ち死にした。
権勢を振るっていた三成の城ならば贅を尽くしているだろうと思われたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には植木すらなく、金銀の蓄えも全くなかった。
三成は「奉公人は主君より授かる物を使い切って残すべからず。残すは盗なり。使い過ぎて借金するは愚人なり」という言葉を残しており、まさにそれが実践されていたのだ。
三成は自領の近江の村に潜んでいた。旧知の寺を尋ね、住職に「何か欲しいものはあるか」と聞かれ「家康の首が欲しい」と答えて恐れさせ、かつ呆れさせたという。
いったんは三成を慕う百姓の与次郎に匿われたが、彼が死を覚悟で、類の及ばないように妻を離縁してきたと聞くと、心を打たれた三成は与次郎を説得し東軍に密告させた。
捕らえられた三成は、家康に面会すると「敗戦など古今よくあることで少しも恥ではない」と堂々とし、また処刑直前にのどが渇いたと水を所望し「水はないが柿はある」と言われると「生柿は体に毒だ」と断った。「これから処刑されるのに毒も何も無いだろう」と笑われると「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と気概を保っていた。
敗戦から1月後、三成は刑場の露と消えた。享年41だった。
余談だが三成は「大一大万大吉」と記された紋を好んで旗印などに用いており、これは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」といういわゆる「ワンフォアオール・オールフォアワン」という意味だと言われるが、この解釈は近年になってから出てきたものであり、単に縁起の良い文字を重ねただけともされ、鎌倉時代から用いられている古い紋であり、三成のオリジナルというわけではない。
はじめは木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)と名乗る。出自は判然としないが、父は足軽か百姓、もしくはさらに下の階級の身分と見られる。
今川家の家臣・松下之綱(まつした・ゆきつな)に仕え、武士の作法や兵法、武術を学んだが、1554年頃から今川家を出て織田信長に仕官した。
ちなみに松下之綱には後年、遠江に1万6千石を与えこの時の恩に報いている。
信長のもとで、冷えた草履を懐で温めたという逸話で知られる草履取りや普請奉行、台所奉行などを務め信頼を勝ち得ていった。その風貌から信長に「猿」、「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい。
1561年には後の北政所(きたのまんどころ)・ねねと当時としては稀な恋愛結婚をし、美濃斎藤家との戦いでは墨俣一夜城の建設で大功を立て、竹中半兵衛、蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)ら多くの優秀な家臣を得た。
また1565年頃に木下秀吉(きのした・ひでよし)と改名した。
1570年、朝倉家を攻める織田軍は、金ヶ崎で盟友の浅井家に突如として背後を襲われた。
このとき秀吉は明智光秀とともに殿軍を務め、被害を最小限に留めたため一躍、名を上げた。
浅井家を滅ぼすと北近江の今浜城を与えられ一国一城の主となった。その際に信長の名から一字を拝領し今浜を「長浜」と改め、さらに織田家の重臣・柴田勝家と丹羽長秀(にわ・ながひで)の姓から一字ずつもらい羽柴秀吉(はしば・ひでよし)と改名するなど如才のないところを見せている。
信長からはよほどの信頼を得ていたのだろう、上杉謙信との戦いの際に、指揮官の柴田勝家と仲違いして勝手に兵を引き上げ、勝家は大敗したが、信長は激怒したものの処罰は与えず、かえって秀吉を中国方面の司令官に任じた。
秀吉は黒田孝高(くろだ・よしたか)の助力を得て赤松家、別所家、小寺家、宇喜多家を次々と降したが、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)が反旗を翻すと、別所家、小寺家もそれに同調し、荒木村重の説得に赴いた黒田孝高も捕らえられ、退却を余儀なくされた。
だが荒木村重を破り黒田孝高を救出し、長らく抵抗を続けていた石山本願寺も降伏すると再侵攻に乗り出し、2年に渡る兵糧攻めの末に別所家の三木城を落とすと、鳥取城も兵糧攻め、備中高松城を水攻めと多彩な策で着々と中国地方を攻略していった。
だが1582年、中国最大の勢力を誇る毛利家が大軍を催したため、秀吉は信長に援軍を請うた。信長は自ら援軍を率いて向かおうとしたが、本能寺で明智光秀に討たれてしまった。
信長暗殺の一報を受けた秀吉は、すぐさま毛利家と和睦するとのちに「中国大返し」とうたわれる迅速な全軍撤退で京に取って返し、信長の死からわずか11日後に明智軍と対峙した。
秀吉のあまりに早い動きから明智軍の陣容は整わず、畿内・四国方面軍と合流した秀吉軍の兵力は明智軍の倍に近かった。
秀吉軍は山崎で明智軍を大破し、退却中に明智光秀も落ち武者狩りによって討たれた。
信長の仇討ちを果たした秀吉は一気に発言権を強め、織田家の後継者を決める清州会議では、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)を推す柴田勝家の意見を抑え、信長の嫡孫に当たる織田秀信(おだ・ひでのぶ)を当主に据え、その後見人の座を得た。
秀吉と勝家・織田信孝は対立し、同年12月には越前の柴田軍が雪で動けない隙をつき、織田秀信を抑留する織田信孝の不行跡を唱え討伐の兵を挙げた。
敗れた織田信孝は人質を差し出して和睦したが、翌年に柴田派の滝川一益(たきがわ・かずます)が挙兵し、雪解けにより柴田軍も南下を始めた。
はじめは中川清秀(なかがわ・きよひで)を討ち取るなど柴田軍が優勢だったが、勝家の副将で秀吉の親友でもある前田利家が戦わずに引き上げると形勢は逆転し、秀吉軍は賤ヶ岳で大勝した。
柴田勝家は正室・お市とともに自害し、織田信孝は切腹、滝川一益は降伏とこれにより秀吉は敵対勢力を一掃した。
しかし1584年、これまで協調していた信長の次男・織田信雄は秀吉に家臣扱いされたことを恨み、親秀吉派の重臣を殺すと、徳川家康、長宗我部元親、雑賀孫市らとともに決起した。
秀吉は織田陣営の池田勝入(いけだ・しょうにゅう)、九鬼嘉隆(くき・よしたか)、織田信包(おだ・のぶかね)を次々と味方につけ、兵力も織田・徳川連合軍の3万に対して秀吉軍は10万と圧倒的に優勢だった。
しかし小牧・長久手の戦いで徳川軍により池田勝入、森長可(もり・ながよし)は討ち取られてしまう。家康を警戒する秀吉は野戦を避け、持久戦を挑んだ。そうなると兵力・財力で劣る家康になす術はなく、織田信雄が勝手に秀吉と和睦すると、家康も次男・秀康(ひでやす)を人質代わりに秀吉の養子として差し出し、和睦した。
秀吉は朝廷に働きかけて官位も得ると、実質的に織田家の支配者となった。大坂城を築いて移り住み、紀伊の雑賀党、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)を破り、中国の毛利家を降伏させ、抵抗する四国の長宗我部家には10万もの大軍を送り込んで討伐した。
1586年には関白・太政大臣の位を受け、豊臣秀吉と名乗り政権を樹立した。
だが九州統一を目前とした島津家の討伐戦では、軍監として派遣した仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戸次川で大敗し、長宗我部元親の嫡子・長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)や十河存保(そごう・ながやす)が戦死してしまった。
激怒した秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州を攻め、島津家を降伏させ西日本の統一を果たした。
秀吉は千利休(せんの・りきゅう)らとともに空前の規模の茶会を催し、黄金の茶室を造り、側室・淀君(よどぎみ)との間に待望の後継者・鶴松(つるまつ)をもうけるなど順風満帆の日々を送った。
そして1590年、全国に号令をかけ地を埋め尽くすほどの大軍で北条家の小田原城を包囲した。
難攻不落の小田原城も抗すすべはなく、3ヶ月後に開城した。東北の諸大名も派兵して恭順の意を示していたため、ここに名実ともに秀吉の天下統一が成された。
1591年、後継者に指名していた鶴松が死去すると、秀吉は甥の豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)を養子として関白職と家督を譲った。それにより秀吉は前関白の尊称である「太閤」と呼ばれるようになった。
同年には理由は諸説あり判然としないが千利休に切腹を命じ、これにより秀吉の死後に利休の弟子たちの多くが徳川方につくなど禍根を招くこととなる。
1592年、明と朝鮮の征服を目指し全国から集めた16万の兵を派遣した。(文禄の役)
総大将に宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、副将に実質的な指揮官として黒田孝高を配し前半戦は圧倒したが、やはり外国の統治はうまく行かず、各地で義勇軍が蜂起し、広大な領地を誇る明からの大軍も駆けつけると戦況は膠着し、翌年には和睦を結んだ。
一方で淀君が二人目の子となる豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を産むと、後継者の座を危ぶんだ豊臣秀次と秀吉との間が険悪となった。
そして1595年、秀吉は無用の殺生を繰り返したという理由で豊臣秀次を廃嫡して高野山へ追放し、のちには謀反の嫌疑をかけて切腹を命じ、腹心や妻子ら数十人を処刑させた。
秀次に謀反の意志はなく、殺生を繰り返したという証言も怪しく、いったん出家させておきながら切腹を命じたこと、死後に首を晒したことはともに異例の事態で、諸大名の反発を招いた。秀次の尋問を担当した石田三成への風あたりも強く、このとき事件に連座して処罰された者、秀次と親しくしていて秀吉の不興を買った者のほとんどが、関ヶ原の戦いに際して石田三成と反対の東軍につくこととなる。
1596年、明との講和交渉が決裂し、秀吉は再び朝鮮出兵を決意した。(慶長の役)
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)を総大将に14万の大軍で攻め込み、さらなる派兵が検討されたが、秀吉の死により立ち消えとなった。
1598年、醍醐寺に全国から700本の桜を集め、妻子と共に一日限りの花見を楽しんだが、その後に病に倒れ、日増しに病状は悪化した。
徳川家康、前田利家ら五大老や石田三成らの五奉行にくり返し後を頼み、著名な辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」を遺し世を去った。
戦争継続を唱える者はほとんどなかったため、五大老らの協議により朝鮮からの全軍撤退が決定した。この戦いで明は多大な戦費の負担と兵力の損耗を強いられ、滅亡の引き金となった。
秀吉死後の覇権を狙う徳川家康は胎動を始め、唯一の障壁となりえた前田利家も亡くなるとわずか2年後の1600年、石田三成率いる西軍を関ヶ原で破り、実質的に天下人の座についた。
豊臣家が大阪夏の陣に敗れ滅亡するのは1615年のことである。
~人物像~
信長に「猿」、「禿げ鼠」と呼ばれたように容貌は優れず、体格にも恵まれなかった。また右手の指が1本多い「多指症」であった。
だが秀吉は自身の容姿が冴えないことや、出自が貧しいことを気にかける様子もなく、「見ての通り、わしは醜い顔をしており、五体も貧弱だが、わしの成功を忘れるでないぞ」とむしろハンデを克服しての成功を誇らしげに語ったという。
俗に言う「人たらし」で、旧敵であろうともいつの間にか懐に入り、心をつかんで味方につけてしまう術に長けていた。そのため秀吉に惚れ込んで家臣となった者は数多い。
九州征伐の際には島津義久(しまづ・よしひさ)と、小田原征伐では伊達政宗とまだ心服させていないにも関わらず二人きりになった挙句、平然と自分の刀を褒美として与えたが、両者とも秀吉の度量に気圧されて斬りつけることができなかった。
並外れた女好きで、当時の武士の間では衆道(同性愛)がごく一般的に行われていたが、秀吉は男には見向きもしなかった。あるとき家臣が、本当に衆道に興味がないのか確かめようと、美少年を小姓として差し出したが、秀吉は「お前には姉妹はいないのか」と尋ねるだけで、一切手出ししなかった。
多くの側室を抱えたが子宝には恵まれず、確かな史料に残るのは淀君が産んだ二人の子供だけで、秀吉の体質に問題があったと思われる。
一方で正室のねねが母代わりとなって、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)らのちに豊臣家の中枢となる人材を育て上げている。
「太閤検地」や「刀狩り」が主な政策として歴史の教科書などで採り上げられるが、これは信長時代の政策の延長線上にあり、秀吉独自の政策というわけではない。
死後に自身を神格化しようと画策したのも信長にならったものであろう。
軍事においては優れた兵法家であり、特に城攻めに長けた。野戦も得意で主だった戦で敗れたのは家康との長久手の戦いくらいであり、これも局地戦で池田勝入らを失っただけで(そもそも兵力差がありすぎて戦略的に負けることはありえなかったのだが)結果的には家康を降している。
朝鮮征伐は今日にまで禍根を残す無謀な愚行とされるが、世界的に見れば国内統一を成し遂げた秀吉が、さらなる領地拡大と求心力の維持を求め、海外に乗り出すのは当然であろう。日本の歴史上、それまで他国侵略を実行したことがほぼ皆無で、結果的に失敗に終わったがために無謀、愚行とされるだけである。
人材登用にも優れ、多くの家臣を見出しては適材適所に配した。加藤清正ら武官と石田三成ら文官をはっきり二派に分けて運用したのも、当時としては斬新な考えであった。
秀吉の死後に両者が相争い、文官の台頭を快く思わず、武官のほとんどが家康方についたことを非難するのも結果論である。
私見を述べるならば、豊臣家があっさりと家康に葬り去られたのは、秀吉の遺児・豊臣秀頼があまりに幼すぎて後継者としては求心力に欠けたこと、(だからこそ一家臣にすぎない秀吉が天下人になれたのだが)信長の急死により突如として跡を継ぎ、軍事・政治ともに信長の急進的な路線を引き継いで強引に統治を進めたこと、そしてなにより信長、秀吉の成功と失敗を学習し、慎重に事を運んだ徳川家康という人物の才能が傑出していたことが、原因であろう。
秀吉自身は間違いなく、天下人にふさわしい比類なき大人物であった。