三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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木村重成(きむら しげなり)
日向の人(1593~1615)
豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次(ひでつぐ)の処刑に連座し切腹した木村重茲(しげこれ)の子とされる。
母は豊臣秀頼(ひでより)の乳母で、重成は幼い頃から秀頼の小姓として仕えた。
秀頼からの信頼厚く、7歳で豊臣姓を許され、元服すると年少ながら重要な軍議にも参加した。
1614年、大坂冬の陣では幕府軍を相手に回し一躍名を知られ、和睦交渉では大坂方の正使として徳川秀忠のもとに赴き、その礼節にかなった堂々たる振る舞いを讃えられた。
1615年、大坂夏の陣では長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)とともに八尾・若江方面に進出し藤堂高虎、井伊直孝(いい・なおたか)と対峙。
藤堂軍を撃破し、なおも進撃しようとすると「兵は疲れておりさらに戦えば必ず負けます」と家臣に諌められるも「この程度の勝利は物の数ではない」と、もとより敗北の決まった戦ゆえ、死に場所を求めて突撃を敢行し、井伊軍によって首を取られた。
徳川家康のもとに届けられた首は、髪に香が焚かれており、首級となった折にも相手に不快の念を与えまいとする心配りと覚悟の程に、周囲の者は感嘆したという。
出撃を前に重成は淀殿(よどどの)の侍女の娘を妻に迎えていた。
重成の戦死の報を聞いた時に彼女は妊娠しており、男児を産むと出家し、重成の一周忌を終えるや自害し、男児は馬淵(まぶち)家に引き取られたという。
~戦国一のイケメン~
美男子としてのみならず人格もイケメンな重成のイケメンエピソードをいくつか紹介する。
年若く身分も低い重成は侮られ、ついには茶坊主にまで侮辱された。だが重成は「本来ならば無礼討ちするところだが、そうすれば私も責任をとって切腹しなければならない。私は秀頼公のために死ぬべきで、お前ごときのために死ぬことはできないのだ」とあえて笑ってみせた。
冬の陣で初陣を飾った重成は、弾丸よけの盾を渡されると「たとえ矢玉は逃れられても運命からは逃れられない」と言い、盾を捨てて突撃し敵将の首を挙げ自陣に凱旋した。
だが家臣が戻っていないと聞くや戦場に取って返し、救出すると自ら殿軍を務め無事に引き上げた。
「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」と讃えられ秀頼からは褒美と感状を与えられたが「このたびの武功は私一人の働きによるものではありません」と辞退し、感状も「他家に仕えるつもりはない」と返した。
同じく冬の陣で、重成の軍は真田幸村の兄・真田信之の軍と対峙した。
幸村の年若い甥が先頭切って攻め寄せると、幸村は「木村殿に討ち取られたなら兄や甥も喜ぶでしょう」と構わず狙い撃ちするよう勧めたが、重成は「いつか和睦し再会する日が来るでしょう」と逆に家臣に銃撃を禁じた。
※アイコンは劉劭
木下勝俊(きのした・かつとし)
尾張の人(1569~1649)
豊臣秀吉の正室ねねの兄にあたる木下家定(いえさだ)の嫡子。
縁戚の少ない秀吉からは一門衆として重用された。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき伏見城を守るも、開戦直前に城を抜け出し鳥居元忠(とりい・もとただ)らを見殺しにした。
和歌の腕に優れたため細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)と同じく天皇の意向で脱出を命じられた、懇意だった叔母のねねが西軍を支持していたため戦闘放棄した、など諸説あるがいずれにしろ勝俊の名声は地に落ち、改易され妻からも離縁された。
1608年、父が没するとねねの働きかけで遺領を継いだが、幕府は弟の木下利房(としふさ)に継がせるよう命じており、それに背いたかどで勝俊・利房はともに改易となった。(なお利房は後に大坂の陣で武功を立て遺領を受け継いでいる)
勝俊は隠棲し、ねねの開いた高台寺の隣に堂を建てると長嘯子(ちょうしょうし)と号し歌道に専念した。
その腕はやがて「近世の歌道は長嘯子に始まる」とまでうたわれるほどになった。
伊達政宗や小堀遠州(こぼり・えんしゅう)ら大名、林羅山(はやし・らざん)や春日局ら幕府の重鎮、藤原惺窩(ふじわら・せいか)ら当代一流の文化人と交流し、後世にはかの松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えたという。
1649年、81歳で没しねねの眠る高台寺に葬られた。
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蒲生氏郷(がもう・うじさと)
近江の人(1556~1595)
六角家の重臣・蒲生賢秀(かたひで)の三男。
1568年、六角家が織田信長に滅ぼされると、蒲生家は氏郷を人質に出し臣従した。
信長はその目を見ただけで氏郷の素質を見抜き、娘婿として迎え入れる約束をしたという。
禅僧に学問を、斎藤利三(さいとう・としみつ)に武芸を習い、元服の際には信長が自ら烏帽子親を務め、織田家当主が代々名乗ってきた「弾正忠」から忠の字を与え忠三郎(ちゅうざぶろう)と名乗らせ、初陣を果たすと約束通り娘の冬姫(ふゆ)を嫁がせた。
氏郷は早くから頭角を現し、織田家の主要な戦のほとんどに参戦した。
1582年、信長が本能寺で討たれると、氏郷は安土城にいた父に信長の妻子を保護させ、居城の日野城に迎え入れ籠城した。
明智光秀は近江半国を譲ることを条件に降伏の誘いを掛けたが、賢秀は断固として拒絶し「日野の頑愚殿」と後に呼ばれた。
光秀は間もなく「中国大返し」によって畿内へ戻った羽柴秀吉に討たれた。
賢秀は同年に氏郷に家督を譲り、蒲生家は以降、秀吉に従い主力として戦った。
指揮官でありながら前線に出ることを好んだ氏郷はしばしば窮地にさらされ、1584年の小牧・長久手の戦いでは氏郷の戦法を熟知する木造具政(こづくり・ともまさ)に狙い撃たれ、兜に3発の銃弾を受けたり、1590年の小田原征伐では北条氏房(ほうじょう・うじふさ)の夜襲を受け、あわてて近くにいた家臣の甲冑を借りると単身で敵兵の背後に回り槍を振るった、などの逸話が知られている。
また小田原征伐に先駆けては、勇猛で知られた佐々成政(さっさ・なりまさ)がかつて用いた「三階菅笠」の馬印の使用を秀吉に願い出るも「成政に劣らぬ働きをすれば許そう」と言われたため、討ち死にを覚悟し肖像画を残すなど死後の準備を整えた上で出陣し、前述の無双の働きを見せ、秀吉に「三階菅笠」の使用を認めさせた、とされる。
秀吉の天下統一がなると、氏郷は伊達政宗への抑えとして陸奥会津92万石を任された。
秀吉は氏郷と腹心の木村吉清(きむら・よしきよ)を呼び寄せると二人の手を握り「氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清は氏郷を父とも主とも頼め。京へは出仕せず奥州で反乱が起これば伊達政宗に先陣を切らせ、氏郷は後陣に続き非常に備えよ」と諭したという。
氏郷は言いつけを忠実に守り、大崎・葛西一揆や九戸政実(くのへ・まさざね)の乱では自身は後方から指揮をとった。
1592年、文禄の役では肥前名護屋まで出陣したが、重病にかかり翌年に帰国した。
症状は日に日に悪化していき、秀吉は名医の曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)に診させたり、前田利家や徳川家康にも名医を派遣するよう命じたが1595年、養生の甲斐なく40歳で没した。
家督は嫡子の蒲生秀行(ひでゆき)が継いだが1598年、家臣の間の対立などを理由に下野宇都宮12万石への大減封を命じられた。
背景には秀行が家康の娘をめとっていたため徳川陣営の切り崩しであるとの説、16歳と幼く父ほどの器量がない秀行に92万石を任せるのに不安があった、などの他に氏郷の未亡人・冬姫に秀吉が懸想したものの、出家し袖にされたのを恨んだ、というものまである。
蒲生家は秀行が30歳で没し、跡を継いだ蒲生忠郷(たださと)、その弟の蒲生忠知(ただとも)も揃って早逝し、あえなく断絶した。
~~完璧超人・蒲生氏郷~~
氏郷は自ら槍を振るう武芸、会津統治に見せた政治能力、千利休の七大弟子(利休七哲)に数えられる教養の他、家臣思いの逸話や他者との興味深い関係を示す逸話が死ぬほど残っているのでいくつか紹介する。
蒲生家では月に一度、家臣を氏郷の屋敷に招き会議を行った。無礼講で自由な発言を許し、散会後には当時は最高級のもてなしとされた風呂を氏郷自らが沸かして家臣を入浴させ、料理を振る舞った。
恩賞として蒲生姓と「郷」の一字をたびたび家臣に与えた。このため蒲生家には外様ながら蒲生姓で名も似た者が非常に多くまぎらわしい。
西村左馬允(にしむら・さまのじょう)という家臣が法度を破り追放されたが、利休七哲に名を連ねる細川忠興(ほそかわ・ただおき)の仲介により帰参した。
氏郷は西村に相撲を取ろうと持ちかけ、西村は手心を加えず二回勝った。誅殺も覚悟していると、氏郷は正直な心に感じ入り逆に加増してやった。
新参の家臣には「銀の鯰尾の兜をかぶり先陣を切る者に負けないよう働け」と話した。その兜の主は誰あろう氏郷自身であり「指揮官は後方にいるのではなく自分が真っ先に敵陣に入り、安全だと教えてやれば家臣はついてくるものだ」と常々語っていた。
会津92万石に移封された時、家臣団に「欲しい俸禄を申し出よ」と命じた。加増を申し立てる者が続出し、計算すると百万石を超えたが氏郷は「なんとか工面せよ」と言うだけで、困り果てた家老は正直に家臣団に現状を伝えた。
氏郷の心意気に感動し加増を辞退する者が相次いだが、氏郷は自身の禄高を9万石まで削り、残りを家臣に振り分けた。
倹約家で知られる前田利家はこの話を聞き氏郷に苦言を呈したという。
一方で軍規には厳しく、馬の沓掛が外れたため隊列を離れた家臣や、見回りに行く間に兜を預けた家臣が持ち場を離れると容赦なく処刑した、とも伝わる。
利休七哲の細川忠興、高山右近(たかやま・うこん)とは特に親しく付き合った。
忠興は7歳下ながら悪口を言い合う仲で、ある時忠興が氏郷のだらしのなさを利休に告げ口していると、障子の裏から氏郷が現れ大笑いし合ったという。
4歳上の右近にはしつこくキリスト教に勧誘され辟易していたが、説教会に招かれると教義に感動し一転して熱心な信者となり、黒田官兵衛を入信させ、臨終の際には右近に看取られた。
秀吉からは旧主の信長の婿ということもあり敬意を払われるとともに警戒され、会津に移封したのは伊達政宗への抑え以外にも、近隣に置いておくのを恐れたともいう。
また「もし氏郷の兵10万と信長の兵5千が戦えば信長が勝つだろう。氏郷が4千人を討ち取ったとしても信長は必ず逃げ延びるが、信長が5人も討ち取ればその中には必ず氏郷の首がある」と、秀吉はもちろん信長も氏郷を最大限に評価していたことを語った。
自身の早逝を嘆いた辞世の句「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風(花はいずれ散ってしまう限りある命なのになぜ春の山風は短気にも花を散らしてしまうのか)」は後世の作家に高く評価されている。
100万石近い大禄を抱え秀吉との関係も良好だった氏郷、彼に匹敵する勢いで高禄を得ており「名人久太郎」とうたわれた戦上手の堀秀政(ほり・ひでまさ)、もし両名の内いずれかが生き長らえ、関ヶ原の戦いで西軍に与していれば、戦の趨勢、引いては天下の行方は大きく変わっていただろう。
※アイコンは霍峻
片桐且元(かたぎり・かつもと)
近江の人(1556~1615)
はじめは片桐直盛(なおもり)と名乗り、且元の名は1600年頃から用いたと見られる。
1573年、仕えていた浅井家が織田信長によって滅ぼされ、その後に長浜城主となった羽柴秀吉に仕えた。
浅井家滅亡の前日、且元の父に宛てられた感状が現存しており、当時18歳の且元も父とともに信長と戦ったと思われる。
1583年、賤ヶ岳の戦いで活躍し加藤清正、福島正則らとともに「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
その後は主に奉行として検地や街道の整備、都市計画など政治方面に才覚を示し、1595年には摂津茨木1万石を得て大名となり、秀吉の晩年には嫡子・豊臣秀頼(ひでより)の傅役にも選ばれた。
秀吉が没すると徳川家康に接近し、大坂に邸宅のない家康は且元の屋敷に泊まるなど昵懇だった。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、弟の片桐貞隆(さだたか)や家臣を大津城攻めにも派遣したが、戦後に徳川家と豊臣家の間を取り持った功績から大和竜田2万4千石へと逆に加増された。
その後も豊臣家に仕えながら、徳川幕府の検地や寺社統制にも協力し、朝廷との交渉も担当した。
1614年、且元が建立にも携わった方広寺の鐘銘などに幕府への叛逆の疑惑が掛けられた。
且元は弁明に務め、家康から「秀頼の駿府・江戸への参勤」「秀頼の母・淀殿(よど)の江戸詰め」「秀頼の大坂城退去」のいずれかを行えば赦免するとの譲歩を引き出したものの、淀殿らはそれに難色を示し、むしろ且元と家康の内通を疑った。
さらに暗殺も企まれたため、且元は貞隆や家臣らとともに大坂城を去った。
且元は家康方につき、大坂城の攻略(大坂冬の陣)に全面的に協力した。
真田幸村の真田丸での防戦に苦しみ、兵糧も不足すると家康は包囲の輪を下げ、且元らに命じて大坂城を大砲で狙い撃たせた。
昼夜を問わず続けられた砲撃により大坂方は意気阻喪し、淀殿の居室を砲弾が直撃すると、ついに淀殿も肝を冷やし講和を申し入れた。
1615年、且元は隠居を願い出たが許されず、大坂夏の陣にも参戦した。
落城寸前、大野治長(おおの・はるなが)は秀頼の居場所を且元に伝え助命を嘆願したが、且元はそれを徳川秀忠に報せたため、秀頼らは自害を遂げた。
落城から20日後、且元は急死を遂げた。
前年から肺病を患っており、心労も加わっての病死と見られるが、豊臣家への殉死とする説もある。
片桐家は嫡男が継いだが4代目が早逝し無嗣改易となった。しかし大和小泉1万石を領した弟の貞隆の家系は幕末まで大名として続いている。
且元は土壇場で豊臣家を裏切った不忠者として当時から評価は低く、様々な記録で悪し様に書かれている。
しかし創作ではむしろ両家の間で板挟みとなった中間管理職的な悲哀が描かれがちである。
※アイコンは程普
奥田直政(おくだ・なおまさ)
尾張の人(1547~1608)
幼少期は寺に預けられ、従弟の堀秀政(ほり・ひでまさ)とともに育った。
6歳年下の秀政とは「先に出世した方の家臣になり支え合おう」と誓ったとされるが、同様の逸話が加藤清正らにもあり真偽は怪しいものの、直政は織田信長の小姓として頭角を現した秀政の腹心として実際に支え続けた。
堀姓を与えられたため堀直政とも呼ばれ、息子らも奥田ではなく堀姓を踏襲している。
だが1590年、秀政は38歳の若さで急死してしまう。
豊臣秀吉は秀政の嫡子・堀秀治(ひではる)が15歳と若いため相続を渋り、あわよくば落ち度を見つけ所領を没収しようと考えた。
直政はそれを察すると自身の次男の堀直寄(なおより)を秀吉のもとへ送った。弱冠14歳の直寄の堂々たる抗議に感心した秀吉は、直寄を自身の小姓に取り立てるとともに秀治の家督相続を認めた。
秀吉は秀政の急死にも屈せずよく堀家を支えた直政を高く評価し、直江兼続、小早川隆景とともに「天下の仕置ができる三人」に挙げた。
一方で「家臣の身ながら天下を狙える三人」としては直政を外し鍋島直茂(なべしま・なおしげ)を代わりに入れているが、仮定の話としても直政に天下を狙う野心は無いと考えてのことだろうか。
1598年、越後の上杉景勝が会津へ転封となり、代わって堀家が越後に移ることになると、この時も直寄が秀吉のもとへ向かい、直政が老齢であること、長年にわたり上杉家に支配された土地で反乱の懸念があることを訴えた。
秀吉ももっともだと考え、直寄や堀家の重臣を付近の大名に任じ、地盤を固めさせた。
ところが上杉家の家老・直江兼続は親友の石田三成と共謀し、年貢米を全て持ち去っており(半分は残しておく慣習だった)堀家はいきなり財政難に見舞われたという。
堀家は上杉家の監視役も担ったが、秀吉が没すると早々に上杉家は軍備を整えだした。
秀吉の死後に台頭した徳川家康は上杉家の討伐を命じ、全国の大名に号令を掛けると、石田三成が蜂起し、関ヶ原の戦いが幕を開いた。
堀家でも東西両軍のどちらにつくか意見が分かれ、直寄は「豊臣家の恩に報い家康と戦うべきだ」と主張したが、直政が「堀家の発展はそもそも織田家によるものだ。秀政も織田家の衰退を嘆いていたし、三成の蜂起は織田家や豊臣家のためになることでもない。戦えば家康が必ず勝つ」と言うと、一同も納得し堀家は東軍につくと決まった。
間もなく三成から「隣国の前田家、丹羽家はすでに西軍についた」とする書状が来たが、直政は即座に嘘だと見抜き、三成に味方する返事を送る一方で前田家に事の真偽を確かめさせた。
直江兼続は年貢米の持ち去りを逆手に取って領民の反感を煽り、一揆を起こさせたが、直政は巧みな用兵で速やかにこれを鎮圧した。
その手腕を見込んでか、翌年に徳川領の佐渡で一揆が起こると、家康は直々に直政に鎮圧を命じている。
直政は堀家の安定のため、徳川家の娘を孫(秀治の息子)の堀忠俊(ただとし)の妻に迎えたいと家康に働きかけた。家康は本多忠勝の孫娘を徳川秀忠の養子にした上で嫁がせたが、堀家は後に改易になったこともあり、親藩の扱いは受けなかった。
1606年に秀治が31歳の若さで没し、直政も1608年に62歳で死去した。
秀治の跡は忠俊が、直政の跡は直寄の兄・堀直清(なおきよ)が継いだが、それに不満を抱いた直寄は家督争いを起こし、兄が僧侶を虐殺した事件を告発した。
かねてから外様大名の勢力削減に動いていた幕府は、渡りに船とばかりに堀家を改易し(忠俊は15歳と若く実質的に直清が統治していたため、直清の罪はそのまま堀家が被った)醜い争いを演じた直寄も減封された。
堀秀政から続く堀宗家はこれにより滅亡したが、堀直寄はその後、功を立て越後村上10万石にまで復帰し、皮肉にも秀政を支え続けた直政の家系が堀家の嫡流となるのだった。
※アイコンは董超
小川祐忠(おがわ・すけただ)
近江の人(??~??)
小川家は近江の国人衆で、もともと佐和山城を領していたが、主家の六角家の衰退により城を追われ、祐忠の代では浅井家に従属していた。
1571年、柴田勝家らの率いる織田軍に攻められ降伏し、織田信長の旗本となった。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると明智光秀に従うも山崎の戦いで敗北し、羽柴秀吉に降った。
戦後の清州会議で北近江が柴田勝家の傘下に置かれると、勝家の甥・柴田勝豊(かつとよ)の家老になった。
だが冷遇されていた勝豊は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に寝返り、祐忠もそれに従った。
勝豊が没すると秀吉に仕え、1590年の小田原征伐で武功を立てると、かつて信長から名前だけもらった土佐守に正式に叙任された。
1598年、文禄・慶長の役の戦功により伊予今治7万石に上り、同年の醍醐の花見では三番茶屋を立てるなど豊臣政権で厚遇された。
1600年、関ヶ原では2500の兵を率い西軍に属するも、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りを目にするや脇坂安治(わきさか・やすはる)ら付近の3部隊とともに連鎖的に寝返り、大谷吉継に襲いかかった。
勇猛で名高い平塚為広(ひらつか・ためひろ)を討ち取り、石田三成の居城でかつての小川家の居城でもある佐和山城攻めでも活躍したが、戦前に寝返りの約束をしていた脇坂安治を除く3人は処罰され、祐忠もあえなく改易された。
改易の理由は他にも領内で悪政を敷いていた、嫡子の小川祐滋(すけしげ)が石田三成と昵懇だったためとも言われる。
祐忠は京に隠棲し(武士をやめ帰農したとも言われる)間もなく没したと見られる。
小川祐滋も刀を捨て京で両替商となり、大成功を収め豪商に名を連ねた。
また子孫には後に大岡越前の肝いりで作られた小石川養生所の開祖「赤ひげ先生」こと小川笙船(しょうせん)がいる。
※アイコンは陳泰
浅野幸長(あさの・よしなが)
近江の人(1576~1613)
豊臣政権で五奉行筆頭を務めた浅野長政(ながまさ)の嫡子。
父は秀吉の妻ねねの義弟で一門衆でも重きを置かれ、幸長も将来を嘱望された。
武勇に優れ多くの戦功を挙げたが1595年、豊臣秀次(ひでつぐ)が失脚すると連座し能登に配流された。
しかし舅の前田利家(ただし妻は祝言を前に早逝している)や徳川家康にとりなされ間もなく復帰を許された。
1598年、秀吉が没すると加藤清正、福島正則らとともに石田三成と対立し、翌年に前田利家が没し抑えが無くなると三成の屋敷を襲撃し暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは父とともに東軍につき、幸長は先鋒として活躍し戦後には紀伊37万石に加増転封された。
関ヶ原こそ三成憎しの思いもあり東軍についたものの、豊臣家への忠誠は依然として厚く、加藤清正や池田輝政(いけだ・てるまさ)ら旧豊臣家臣とともに陰に日向に豊臣家に尽くしていたが1613年、急逝した。
幸長、清正、輝政は同時期に相次いで(しかも同じ病名で)急死しており、徳川家康による暗殺説も根強い。
※アイコンは陳羣
浅野長政(あさの・ながまさ)
尾張の人(1547~1611)
豊臣政権の五奉行筆頭。長政の名で著名だがそれは秀吉死後に改名した晩年の名乗りで、浅野長吉(ながよし)を名乗っていた時期の方がはるかに長い。
安井家に生まれたが叔父の浅野長勝(ながかつ)に男子が無かったため、婿養子になり浅野家を継いだ。
長勝の養女のねねが木下藤吉郎に嫁ぐと、親族の少ない後の豊臣秀吉は、義兄弟の長政を一門衆の筆頭格として重用した。
秀吉からの信頼は絶大で、1583年には近江大津2万石を与えられ大名に列し、翌年には京都奉行、そして五奉行筆頭として行政手腕を活かし、全国の太閤検地や金銀山の管理を任された。太閤にまで上った秀吉に対し意見を言える数少ない人物だったともいう。
また秀吉の妹・朝日姫(あさひ)が徳川家康に嫁ぐ際には同行したり、天下統一の最後の仕上げとなる奥州仕置も担当。
伊達政宗から絶縁状を叩きつけられたり、宇都宮家を讒言で取り潰しに追いやったりと個人の感情で動く一面もあったが、豊臣政権の重鎮として揺るぎなく、石高も甲斐21万石に上った。
秀吉没後の1599年、前田利長(まえだ・としなが)とともに謀叛の嫌疑を掛けられたため隠居し、嫡子の浅野幸長(よしなが)に家督を譲った。
だが1600年、関ヶ原の戦いでは時勢を見極め家康方につき、自らは徳川秀忠を補佐、幸長は東軍の先鋒として活躍し、幸長は戦後に紀伊37万石へ加増転封となった。
1606年、隠居料として常陸5万石を与えられた。
1611年、常陸で65歳で没した。次男の浅野長晟(ながあきら)はすでに備中に2万石を受けていたため、常陸は三男の浅野長重(ながしげ)が継いだ。
浅野家は1613年に幸長が急死すると(家康による暗殺説も根強い)男子が無かったため長晟が跡を継ぎ、後に改易された福島正則に代わり安芸42万石に転封され幕末まで続いた。
長重の継いだ領地は息子の代に播磨赤穂に移され、長重の曾孫が赤穂浪士で著名なかの浅野内匠頭である。
※アイコンは周善
赤座直保(あかざ・なおやす)
越前の人(??~1606)
もともとは朝倉家に仕えていたと思われる。
1573年、織田信長が朝倉家を滅ぼすと織田家に仕えた。
1582年、本能寺の変で織田信忠(のぶただ)の麾下にいた父が戦死すると家督を継いだ。
その後は豊臣家に仕え、1590年の小田原征伐では石田三成とともに忍城を攻める。
その功で越前今庄2万石に加増され、今庄を北国街道の宿場駅として発展させた。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍についたものの、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りを目にするや脇坂安治(わきさか・やすはる)ら付近の3部隊とともに連鎖的に寝返り、大谷吉継に襲いかかった。
だが戦前に寝返りの約束をしていた脇坂安治を除く3人は処罰され、直保も改易された。
その後は前田家に仕えたが1606年、氾濫した川の視察中に濁流に落ち、あえなく溺死した。
子孫は永原(ながはら)に改姓し、前田家の家臣として存続している。
※アイコンは大喬
千姫(せんひめ)
山城の人(1597~1666)
豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)の正室。
徳川秀忠と江姫(ごう)の長女で、秀頼の母・淀殿(よど)は伯母(江の長姉)にあたる。
1603年、7歳で秀頼に嫁ぎ豊臣家に入った。
夫婦の間に子は産まれなかったが、1615年に豊臣家が滅亡すると、逃がされた千姫は秀頼の側室の子である天秀尼(てんしゅうに)の助命嘆願をし、養女として迎え入れた上で出家させ、命を救った。
1616年、本多忠勝の孫・本多忠刻(ほんだ・ただとき)に再嫁した。
この時、坂崎直盛(さかざき・なおもり)が千姫の強奪を企んだものの、事前に露見したため直盛は自害(殺害されたとの説もある)した。
直盛は燃え落ちる大坂城から千姫を助け出した人物で、徳川家康は千姫を助けた者に嫁がせる口約束をしていたのだが、醜男で救出時に顔に火傷も負った直盛を千姫は嫌い、美男の忠刻を選んだとされる。
忠刻との間には一男一女に恵まれたが、夫・母・姑・息子を数年のうちに相次いで亡くし、直盛の呪いとささやかれた。
千姫は娘とともに本多家を出ると、出家して家族の菩提を弔った。
娘は1632年に池田家に嫁いだが千姫は寺に残った。
1644年には弟・徳川家光の厄年を避けるためその側室と三男が千姫とともに暮らしたため、その縁で大奥への強い影響力を持つようになったとされ、事実1655年には妹の依頼を受け越前松平家の婚姻に介入したとされる。
1666年に70歳で没した。