三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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蒲生氏郷(がもう・うじさと)
近江の人(1556~1595)
六角家の重臣・蒲生賢秀(かたひで)の三男。
1568年、六角家が織田信長に滅ぼされると、蒲生家は氏郷を人質に出し臣従した。
信長はその目を見ただけで氏郷の素質を見抜き、娘婿として迎え入れる約束をしたという。
禅僧に学問を、斎藤利三(さいとう・としみつ)に武芸を習い、元服の際には信長が自ら烏帽子親を務め、織田家当主が代々名乗ってきた「弾正忠」から忠の字を与え忠三郎(ちゅうざぶろう)と名乗らせ、初陣を果たすと約束通り娘の冬姫(ふゆ)を嫁がせた。
氏郷は早くから頭角を現し、織田家の主要な戦のほとんどに参戦した。
1582年、信長が本能寺で討たれると、氏郷は安土城にいた父に信長の妻子を保護させ、居城の日野城に迎え入れ籠城した。
明智光秀は近江半国を譲ることを条件に降伏の誘いを掛けたが、賢秀は断固として拒絶し「日野の頑愚殿」と後に呼ばれた。
光秀は間もなく「中国大返し」によって畿内へ戻った羽柴秀吉に討たれた。
賢秀は同年に氏郷に家督を譲り、蒲生家は以降、秀吉に従い主力として戦った。
指揮官でありながら前線に出ることを好んだ氏郷はしばしば窮地にさらされ、1584年の小牧・長久手の戦いでは氏郷の戦法を熟知する木造具政(こづくり・ともまさ)に狙い撃たれ、兜に3発の銃弾を受けたり、1590年の小田原征伐では北条氏房(ほうじょう・うじふさ)の夜襲を受け、あわてて近くにいた家臣の甲冑を借りると単身で敵兵の背後に回り槍を振るった、などの逸話が知られている。
また小田原征伐に先駆けては、勇猛で知られた佐々成政(さっさ・なりまさ)がかつて用いた「三階菅笠」の馬印の使用を秀吉に願い出るも「成政に劣らぬ働きをすれば許そう」と言われたため、討ち死にを覚悟し肖像画を残すなど死後の準備を整えた上で出陣し、前述の無双の働きを見せ、秀吉に「三階菅笠」の使用を認めさせた、とされる。
秀吉の天下統一がなると、氏郷は伊達政宗への抑えとして陸奥会津92万石を任された。
秀吉は氏郷と腹心の木村吉清(きむら・よしきよ)を呼び寄せると二人の手を握り「氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清は氏郷を父とも主とも頼め。京へは出仕せず奥州で反乱が起これば伊達政宗に先陣を切らせ、氏郷は後陣に続き非常に備えよ」と諭したという。
氏郷は言いつけを忠実に守り、大崎・葛西一揆や九戸政実(くのへ・まさざね)の乱では自身は後方から指揮をとった。
1592年、文禄の役では肥前名護屋まで出陣したが、重病にかかり翌年に帰国した。
症状は日に日に悪化していき、秀吉は名医の曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)に診させたり、前田利家や徳川家康にも名医を派遣するよう命じたが1595年、養生の甲斐なく40歳で没した。
家督は嫡子の蒲生秀行(ひでゆき)が継いだが1598年、家臣の間の対立などを理由に下野宇都宮12万石への大減封を命じられた。
背景には秀行が家康の娘をめとっていたため徳川陣営の切り崩しであるとの説、16歳と幼く父ほどの器量がない秀行に92万石を任せるのに不安があった、などの他に氏郷の未亡人・冬姫に秀吉が懸想したものの、出家し袖にされたのを恨んだ、というものまである。
蒲生家は秀行が30歳で没し、跡を継いだ蒲生忠郷(たださと)、その弟の蒲生忠知(ただとも)も揃って早逝し、あえなく断絶した。
~~完璧超人・蒲生氏郷~~
氏郷は自ら槍を振るう武芸、会津統治に見せた政治能力、千利休の七大弟子(利休七哲)に数えられる教養の他、家臣思いの逸話や他者との興味深い関係を示す逸話が死ぬほど残っているのでいくつか紹介する。
蒲生家では月に一度、家臣を氏郷の屋敷に招き会議を行った。無礼講で自由な発言を許し、散会後には当時は最高級のもてなしとされた風呂を氏郷自らが沸かして家臣を入浴させ、料理を振る舞った。
恩賞として蒲生姓と「郷」の一字をたびたび家臣に与えた。このため蒲生家には外様ながら蒲生姓で名も似た者が非常に多くまぎらわしい。
西村左馬允(にしむら・さまのじょう)という家臣が法度を破り追放されたが、利休七哲に名を連ねる細川忠興(ほそかわ・ただおき)の仲介により帰参した。
氏郷は西村に相撲を取ろうと持ちかけ、西村は手心を加えず二回勝った。誅殺も覚悟していると、氏郷は正直な心に感じ入り逆に加増してやった。
新参の家臣には「銀の鯰尾の兜をかぶり先陣を切る者に負けないよう働け」と話した。その兜の主は誰あろう氏郷自身であり「指揮官は後方にいるのではなく自分が真っ先に敵陣に入り、安全だと教えてやれば家臣はついてくるものだ」と常々語っていた。
会津92万石に移封された時、家臣団に「欲しい俸禄を申し出よ」と命じた。加増を申し立てる者が続出し、計算すると百万石を超えたが氏郷は「なんとか工面せよ」と言うだけで、困り果てた家老は正直に家臣団に現状を伝えた。
氏郷の心意気に感動し加増を辞退する者が相次いだが、氏郷は自身の禄高を9万石まで削り、残りを家臣に振り分けた。
倹約家で知られる前田利家はこの話を聞き氏郷に苦言を呈したという。
一方で軍規には厳しく、馬の沓掛が外れたため隊列を離れた家臣や、見回りに行く間に兜を預けた家臣が持ち場を離れると容赦なく処刑した、とも伝わる。
利休七哲の細川忠興、高山右近(たかやま・うこん)とは特に親しく付き合った。
忠興は7歳下ながら悪口を言い合う仲で、ある時忠興が氏郷のだらしのなさを利休に告げ口していると、障子の裏から氏郷が現れ大笑いし合ったという。
4歳上の右近にはしつこくキリスト教に勧誘され辟易していたが、説教会に招かれると教義に感動し一転して熱心な信者となり、黒田官兵衛を入信させ、臨終の際には右近に看取られた。
秀吉からは旧主の信長の婿ということもあり敬意を払われるとともに警戒され、会津に移封したのは伊達政宗への抑え以外にも、近隣に置いておくのを恐れたともいう。
また「もし氏郷の兵10万と信長の兵5千が戦えば信長が勝つだろう。氏郷が4千人を討ち取ったとしても信長は必ず逃げ延びるが、信長が5人も討ち取ればその中には必ず氏郷の首がある」と、秀吉はもちろん信長も氏郷を最大限に評価していたことを語った。
自身の早逝を嘆いた辞世の句「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風(花はいずれ散ってしまう限りある命なのになぜ春の山風は短気にも花を散らしてしまうのか)」は後世の作家に高く評価されている。
100万石近い大禄を抱え秀吉との関係も良好だった氏郷、彼に匹敵する勢いで高禄を得ており「名人久太郎」とうたわれた戦上手の堀秀政(ほり・ひでまさ)、もし両名の内いずれかが生き長らえ、関ヶ原の戦いで西軍に与していれば、戦の趨勢、引いては天下の行方は大きく変わっていただろう。