三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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木村重成(きむら しげなり)
日向の人(1593~1615)
豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次(ひでつぐ)の処刑に連座し切腹した木村重茲(しげこれ)の子とされる。
母は豊臣秀頼(ひでより)の乳母で、重成は幼い頃から秀頼の小姓として仕えた。
秀頼からの信頼厚く、7歳で豊臣姓を許され、元服すると年少ながら重要な軍議にも参加した。
1614年、大坂冬の陣では幕府軍を相手に回し一躍名を知られ、和睦交渉では大坂方の正使として徳川秀忠のもとに赴き、その礼節にかなった堂々たる振る舞いを讃えられた。
1615年、大坂夏の陣では長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)とともに八尾・若江方面に進出し藤堂高虎、井伊直孝(いい・なおたか)と対峙。
藤堂軍を撃破し、なおも進撃しようとすると「兵は疲れておりさらに戦えば必ず負けます」と家臣に諌められるも「この程度の勝利は物の数ではない」と、もとより敗北の決まった戦ゆえ、死に場所を求めて突撃を敢行し、井伊軍によって首を取られた。
徳川家康のもとに届けられた首は、髪に香が焚かれており、首級となった折にも相手に不快の念を与えまいとする心配りと覚悟の程に、周囲の者は感嘆したという。
出撃を前に重成は淀殿(よどどの)の侍女の娘を妻に迎えていた。
重成の戦死の報を聞いた時に彼女は妊娠しており、男児を産むと出家し、重成の一周忌を終えるや自害し、男児は馬淵(まぶち)家に引き取られたという。
~戦国一のイケメン~
美男子としてのみならず人格もイケメンな重成のイケメンエピソードをいくつか紹介する。
年若く身分も低い重成は侮られ、ついには茶坊主にまで侮辱された。だが重成は「本来ならば無礼討ちするところだが、そうすれば私も責任をとって切腹しなければならない。私は秀頼公のために死ぬべきで、お前ごときのために死ぬことはできないのだ」とあえて笑ってみせた。
冬の陣で初陣を飾った重成は、弾丸よけの盾を渡されると「たとえ矢玉は逃れられても運命からは逃れられない」と言い、盾を捨てて突撃し敵将の首を挙げ自陣に凱旋した。
だが家臣が戻っていないと聞くや戦場に取って返し、救出すると自ら殿軍を務め無事に引き上げた。
「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」と讃えられ秀頼からは褒美と感状を与えられたが「このたびの武功は私一人の働きによるものではありません」と辞退し、感状も「他家に仕えるつもりはない」と返した。
同じく冬の陣で、重成の軍は真田幸村の兄・真田信之の軍と対峙した。
幸村の年若い甥が先頭切って攻め寄せると、幸村は「木村殿に討ち取られたなら兄や甥も喜ぶでしょう」と構わず狙い撃ちするよう勧めたが、重成は「いつか和睦し再会する日が来るでしょう」と逆に家臣に銃撃を禁じた。