三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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木村吉清(きむら・よしきよ)
丹波の人(??~1598)
豊臣秀吉の重臣。
はじめは荒木村重(あらき・むらしげ)に仕えた。
村重の反乱後は明智光秀に仕え、1582年の山崎の戦いで光秀が敗れると、秀吉に取り立てられた。
亀山城の受け取りの際に手際が良かったことを、秀吉の母の大政所(おおまんどころ)が気に入ったという説がある。
行政手腕に優れ、太閤検地の奉行を務め、1590年の奥州仕置で戦功も立てると、それまでの5千石から一気に30万石の大名へと大抜擢された。
秀吉は会津42万石を与えた蒲生氏郷(がもう・うじさと)と吉清を招くと二人の手を握り「氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清は氏郷を父とも主と頼め。奥州の非常時に備え、もし反乱が起これば伊達政宗に先陣をさせ、氏郷は後陣を務めよ」と命じた。
吉清の領地はかつて葛西・大崎家が治めていたが、伊達政宗を警戒し、秀吉の小田原征伐に参戦しなかったため改易となっていた。
葛西・大崎の旧臣はそれに根強い不満を抱いており、また吉清は彼らの反乱を恐れて家臣に雇わず、浪人を雇ったり配下の足軽を昇進させていたが、にわかに地位を得た彼らは増長し、領民を弾圧してしまった。
旧臣・領民の怒りは爆発し、葛西大崎一揆が巻き起こると、吉清は一揆勢によって捕らえられ幽閉された。
蒲生氏郷と伊達政宗(なお一揆は政宗が扇動したものである)の援軍が駆けつけ鎮圧されたが、吉清は責任を問われ改易となった。
その後は蒲生氏郷の客将として仕え、1598年に蒲生家が宇都宮へ転封となると、吉清は豊後に1万5千石を与えられ大名に返り咲いたが、その矢先に病死した。
余談ながら現在の福島の名付け親は吉清であり、また秀吉が奥州の反乱分子を一掃するため、30万石を治めるほどの器量のない吉清を送り込み、一揆を誘発させたとする陰謀説もある。