三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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滝川雄利(たきがわ・かつとし)
伊勢の人(1543~1610)
伊勢北畠家の一族である木造家に生まれたとされるが父や確かな血筋は定かではない。
はじめは僧侶として木造家に仕えたが1569年、織田信長が伊勢に侵攻すると織田家の重臣・滝川一益(かずます)に才を見出され、木造具政(こづくり・ともまさ)の調略に貢献したため(雄利は具政の三男とする説もある)一益に娘婿として迎えられた。
その後は北畠家に養嗣子として入った信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕え、1576年には北畠家の当主・北畠具教(きたばたけ・とものり)の近習を買収して刀を抜けないように細工をさせ、剣豪で知られる具教を無抵抗で暗殺した。
1578年、信雄は独断で伊賀を攻めるが大敗を喫し、信長に一時は勘当を検討されるほど叱責された。
1581年、再度の伊賀侵攻では国人衆を調略して勝利に貢献し、戦後には伊賀守護に任じられた。
1582年、信長が本能寺で討たれた後も信雄に従い、小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の内応の誘いも蹴った。
戦後には秀吉に仕えていた滝川一益を通じて交渉し、信雄と秀吉の和睦を成立させ、秀吉からは徳川家康への和睦の使者も任された。
秀吉にも気に入られ羽柴姓を賜り、信雄が改易された後も処分を免れ伊勢神戸2万石を領した。
秀吉の御伽衆に列し、1595年に豊臣秀次(ひでつぐ)が処刑された際には連座したものの叱責されただけで済んだ。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍につき、本戦には出なかったものの戦場に近い居城を守り、戦後に改易され僧侶に戻った。
しかし家康に呼び戻されて還俗し、常陸片野2万石を与えられ、御伽衆を務めた。
1610年に68歳で没した。
特筆すべき際立った才能も活躍も見受けられないにも関わらず、信長・秀吉・家康ら三人の天下人に厚遇された稀有の人物である。
家督は長男の滝川正利(まさとし)が継いだが、病弱で嗣子もなかったため1万8千石を幕府に返上し、以降の滝川家は旗本として幕末まで存続した。
また滝川一益の家系はさらに前に没落しやはり旗本となっている。