三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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戸田勝隆(とだ・かつたか)
出身地不明(??~1594)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。
秀吉の主要な戦のほとんどに名を連ねたほか、各地の奉行を務め、千利休の茶会に参加するなど政治・文化面にも長じた。
四国征伐後の1587年、伊予大洲に7万石を与えられたが、国人衆や民衆の反発を招き、すぐに一揆が起こった。
勝隆は元の伊予の大名である西園寺公広(さいおんじ・きんひろ)が黒幕と考え、暗殺を決意した。
本領安堵を許す秀吉の偽の朱印状を渡し、自邸に招いたが、公広はこれを怪しみ10名の家臣を連れてきた。
勝隆は言葉巧みに家臣を引き離し襲撃させたが、公広は奮戦し9人もの道連れを出した末に自刃して果てた。公広の家臣も主君の死を知るや激昂して戸田軍に襲いかかり50余名を殺した後に全滅したという。
ともあれ黒幕を討った勝隆は、国人衆に人質を出させ、武芸に優れた者はおびき寄せて殺すなどの圧政で一揆を抑え込んだ。
一方で浪人していた武芸者や、預けられていた罪人などを雇っては力を蓄え、戦のたびに手柄を立てた。
文禄の役でも活躍したが、在陣中に病死した。跡継ぎはなく、戸田家は無嗣改易となり、領地は隣接する藤堂高虎の領地に組み入れられた。
かつて勝隆には息子がいたが、勝隆が鷹狩りに行っている最中に、幼い息子は刃物をいじって身体を傷つけ死んでしまった。
報告を受けた勝隆は「自分の刃で傷つくような者など成長しても役に立たぬ。わざわざ帰ることもない」とそのまま鷹狩りを続けたという。
また弟の戸田勝成(かつしげ)も猛将として名高く、関ヶ原の戦いで石田三成に味方し奮戦したものの討ち死にしている。