三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
※アイコンは董超
小川祐忠(おがわ・すけただ)
近江の人(??~??)
小川家は近江の国人衆で、もともと佐和山城を領していたが、主家の六角家の衰退により城を追われ、祐忠の代では浅井家に従属していた。
1571年、柴田勝家らの率いる織田軍に攻められ降伏し、織田信長の旗本となった。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると明智光秀に従うも山崎の戦いで敗北し、羽柴秀吉に降った。
戦後の清州会議で北近江が柴田勝家の傘下に置かれると、勝家の甥・柴田勝豊(かつとよ)の家老になった。
だが冷遇されていた勝豊は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に寝返り、祐忠もそれに従った。
勝豊が没すると秀吉に仕え、1590年の小田原征伐で武功を立てると、かつて信長から名前だけもらった土佐守に正式に叙任された。
1598年、文禄・慶長の役の戦功により伊予今治7万石に上り、同年の醍醐の花見では三番茶屋を立てるなど豊臣政権で厚遇された。
1600年、関ヶ原では2500の兵を率い西軍に属するも、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りを目にするや脇坂安治(わきさか・やすはる)ら付近の3部隊とともに連鎖的に寝返り、大谷吉継に襲いかかった。
勇猛で名高い平塚為広(ひらつか・ためひろ)を討ち取り、石田三成の居城でかつての小川家の居城でもある佐和山城攻めでも活躍したが、戦前に寝返りの約束をしていた脇坂安治を除く3人は処罰され、祐忠もあえなく改易された。
改易の理由は他にも領内で悪政を敷いていた、嫡子の小川祐滋(すけしげ)が石田三成と昵懇だったためとも言われる。
祐忠は京に隠棲し(武士をやめ帰農したとも言われる)間もなく没したと見られる。
小川祐滋も刀を捨て京で両替商となり、大成功を収め豪商に名を連ねた。
また子孫には後に大岡越前の肝いりで作られた小石川養生所の開祖「赤ひげ先生」こと小川笙船(しょうせん)がいる。