三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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加藤清正(かとう・きよまさ)
尾張の人(1562~1611)
刀鍛冶の父が没すると、母が羽柴秀吉の母・大政所(おおまんどころ)の縁戚だったことから1573年、秀吉に小姓として仕えた。
実子のない秀吉・ねね夫妻は清正や福島正則らを我が子同然に養育し、やがて子飼いの武将として成長していった。
1582年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将を討ち取るなど大功を挙げ福島正則らとともに「賤ヶ岳七本槍」と讃えられた。
その後も多くの戦で手柄を立て1586年、肥後を治めていた佐々成政(さっさ・なりまさ)が大規模な一揆を招いたため切腹となると、北肥後に19万石を与えられ、熊本城を居城に定めた。
清正は統治にも抜群の手腕を見せ、現在の熊本の発展を築いたと言って過言ではない。
1592年からの文禄の役では先鋒として鍋島家、相良家を傘下に置き、小西行長(こにし・ゆきなが)と激しく功を争った。
行長とは領地を接し以前から犬猿の仲で、やがて戦線が膠着すると進軍を主張する清正と講和を主張する行長は意見が対立した。
秀吉が明・朝鮮に示した講和の条件は到底受け入れられるものではなく、行長は独断で和睦を進め、それに石田三成の賛成も得ると、清正を讒言し本国送還のうえ謹慎に追い込んだ。
だが行長は明には秀吉が降伏すると、秀吉には明が降伏すると詐称しており、工作が露見すると一転して窮地に立たされ、前田利家や淀殿(よどどの 秀吉の側室)のとりなしがなければ処刑されるところだった。
ちなみに京で蟄居していた清正は伏見の大地震の際に秀吉のもとへ駆けつけたことで赦免されている。
1597年、慶長の役でも清正と行長は先鋒を務めた。
先の和睦工作の責任から手柄を立てるよう命じられていた行長は、明・朝鮮軍に清正の上陸予想地点を密告し討たせようとしたが、敵将の李舜臣(りしゅんしん)はこれを罠だと疑い兵を動かさなかった。
築城の名手として知られる清正は前線に城を築いていたが、そこに5万7千もの明・朝鮮軍が攻め寄せた。清正はわずか5百の手勢で籠城し、兵糧も乏しく城も未完成のなか10日間にわたり耐え抜き、援軍が駆けつけると逆襲に打って出て敵軍に死傷者2万もの大損害を与えた。
清正は朝鮮の人々から鬼(幽霊)と恐れられ、現地では虎を殴り殺したという伝承が残る。(もともとは黒田家の逸話だが、畏怖された清正の逸話へと変わったという)
1598年、秀吉が没すると徳川家康は無断で有力大名と血縁を結び、清正も家康の養女を継室として迎えた。
翌年、前田利家も亡くなると清正ら武断派と石田三成ら文治派の対立は深刻化し、ついには福島正則らとともに三成の暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは三成への反発もあり東軍につき、黒田如水らとともに西軍方の勢力と戦った。
小西行長は西軍につき本戦でも奮闘するも、敗北し処刑され、彼が治めていた南肥後は清正に与えられ52万石に加増された。
またこの時、立花家の旧領を通過しようとするも、立花道雪(たちばな・どうせつ)の娘(立花誾千代)が兵を集めており、領民もよく懐いていると聞くとあわてて道を変えた、という逸話が残るが伝承の域を出ない。
その後は一時の泰平を得た世で肥後の発展に尽くし、幕府に請われて各地に城を築いた。
また徳川家と豊臣家との仲を取り持ったが1611年、家康と豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)の会見を斡旋し帰国中の船内で急死した。享年50。
2年後に清正と並ぶ豊臣家の有力者だった浅野幸長(あさの・よしなが)が同じ病で没し、さらに池田輝政(いけだ・てるまさ)も急死しており、一連の死は家康による毒殺説も根強い。
家康と秀頼の会見の際、家康は遅効性の毒を仕込んだ饅頭を差し出し、徳川家の平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)がそれを毒味して見せたが、清正は意図を察すると秀頼の横から饅頭を取り、会見後に二人は急死した、という逸話が歌舞伎の題材にもなっている。
長男・次男は早逝していたため三男の加藤忠広(ただひろ)が11歳で家督を継いだ。
しかし幼君を抱えた家臣団は権力争いに励み、ついには改易された。理由として忠広の子・加藤光広(みつひろ)が徳川幕府転覆を誓う諸大名の名前を連署した「ぼくの考えた謀叛の連判状」を作ったため、とも言われている。
加藤家の改易後、肥後に入った細川忠利(ほそかわ・ただとし)は清正の霊をうやうやしく祀った。
領民も佐々成政の切腹を招くなど荒れに荒れていた肥後を安定させ、21世紀の現在も参考にされるほど優れた建築・治水技術を持ち、工事の際には農閑期に手の空いた人々を老若男女を問わず集め、無理なく働かせ給金も多く支払った清正を慕い、やがて神格化され民間で信仰されていったという。