三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
名古屋山三郎(なごや・さんさぶろう)
尾張の人(1572~1603)
名古屋家は織田家の縁戚で、山三郎は出雲阿国をめとりともに歌舞伎の創始者とされるが、半ば伝説化した話で信憑性は乏しい。
15歳で織田信長の娘婿である蒲生氏郷(がもう・うじさと)に仕えた。
山三郎は「天下三美少年」の一人に数えられ、氏郷も初対面では少女と見誤り、嫁に取ろうと身元を調べさせたという。
槍の腕に優れ重用されたが1595年、氏郷が没すると蒲生家を去り出家した。
その後、妹婿の森忠政(もり・ただまさ)に仕えた。
美青年で教養高い山三郎は饗応役として取り立てられたが、他の2人の妹も森家の重臣に嫁ぐなど発言力を増していき、井戸宇右衛門(いど・うえもん)らに恨まれた。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、森家は真田家への牽制のため出陣を止められたが、忠政は独断で井戸宇右衛門を出撃させ、真田方の上田城を攻める徳川秀忠を援護させた。
しかし真田幸村が報復のため宇右衛門が城代を務める葛尾城を攻めると、森家に不満を持つ井戸家の家臣が城門を開き、敵兵を招き入れてしまった。
落城は免れたものの、忠政は日頃の宇右衛門の態度とあわせて失態に激怒した。
1603年、美作に転封となった忠政は、築城場所をめぐり宇右衛門と意見が対立した。
堪忍袋の緒が切れた忠政は、とうとう山三郎に刀を与え宇右衛門の成敗を命じた。
ところが山三郎は返り討ちにあい、逆に自身が斬られてしまった。宇右衛門も居合わせた森家の家臣によって討たれたが、宇右衛門の力を買っていた徳川家康はこのことに怒り、しばらく忠政の面会を断ったという。
山三郎の遺体は現場の北側に、宇右衛門の遺体は南側に葬られ、それぞれ墓標代わりに松の木が植えられた。
この二本松は一方が生い茂ればもう一方は生気を失くしを絶えず繰り返し、現在も「にらみ合いの松」として伝わっている。