三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)
備前の人(1572~1655)
備前の大名・宇喜多直家(うきた・なおいえ)の次男として生まれる。父が病死すると11歳で家督を継いだ。
織田家に従属していたが本能寺の変が起こるとそのまま羽柴秀吉に仕え、隣国の毛利家へにらみを利かした。
元服すると秀吉に大いに気に入られ「秀」の一字を与えられ、さらに養女の豪姫(ごう 前田利家の娘)を正室に迎え一門衆に列した。
若年ながら指揮能力に優れ、また優秀な家臣団にも支えられ紀州征伐から四国、九州攻めで活躍し、1592年からの文禄の役では総大将を務めた。
秀吉からは豊臣・羽柴姓や参議の官位を与えられ「備前宰相」と呼ばれた。
1597年、慶長の役でも毛利秀元(もうり・ひでもと)とともに監軍として渡海し、帰国すると五大老に列せられた。
しかし秀吉没後の1599年、秀家の側近・中村次郎兵衛(なかむら・じろべえ)の専横に不満を募らせた戸川達安(とがわ・みちやす)らが次郎兵衛の処分を求めるも秀家はこれを拒否したため、重臣らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる「宇喜多騒動」が起こった。
次郎兵衛はもともと仕えていた前田家に逃亡し、激怒した秀家は戸川達安の暗殺を企むが、従兄の宇喜多詮家(うきた・あきいえ)が達安を匿い両者に一触即発の空気が流れた。
徳川家康は大谷吉継(おおたに・よしつぐ)と榊原康政(さかきばら・やすまさ)に調停役を命じたが収拾がつかず、政務が滞るまでに至ったため家康は強引に事を収めたが、これにより達安や詮家ら多くの家臣団が宇喜多家を去り、大きく勢力が削がれた。
同年、前田利家が没すると屋台骨を失った豊臣家は石田三成ら文治派と福島正則ら武断派の対立が深刻化し、正則らの三成襲撃事件が勃発した。秀家は佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とともに三成を救出したが、混乱の隙をつき家康が台頭していき、豊臣家と徳川家の激突は避けられない状況となった。
1600年、ついに関ヶ原の戦いが起こり秀家は西軍の副将に担ぎ上げられた。
本戦でも西軍で最多の1万7千を率い主力として奮闘したが、同じ豊臣一門の小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返り大敗を喫した。
秀家は「秀秋を叩き斬ってやる」と激怒したが、軍師格の明石全登(あかし・てるずみ)に制止されやむなく落ち延びていったという。
秀家は各地を転々とした末に島津家に流れ着き、豪姫も偽の葬儀を挙げるなど(ちなみに秀家の末子は生まれ年から逆算すると、潜伏中にどこかで豪姫と落ち合った際に身籠ったと思われる)工作したが、生存している噂が流れ、島津家も家康に降伏したため1603年、島津忠恒(しまづ・ただつね)によって身柄を引き渡された。
忠恒と、秀家の義弟・前田利長(まえだ・としなが)の懇願によって死罪は免れたが、長男・次男とともに公式記録では史上初の八丈島への流刑となった。
八丈島では前田家に戻った豪姫や旧臣の花房正成(はなぶさ・まさなり)らの援助により、没するまで50年もの長きを過ごした。
他の流人よりも厚遇されてはいたが、やはり生活は貧しく「嵐を避けて停泊した福島正則の家臣に酒を恵んでもらった」「八丈島の代官におにぎりをもらった」などの逸話が伝わっている。
1655年、84歳で死去。関ヶ原に参戦した大名の中で最も長寿で、すでに江戸幕府は4代将軍の治世であった。
家康の死後、恩赦により帰国を許されたが断ったという説もある。
~泳いで参った~
アイコンと同様にネット上では「泳ぐ人」として定着している。
きっかけは掲示板で大坂の陣について議論された際、豊臣方に全軍を統括できる有能な指揮官がいなかったことから「秀家が総大将なら勝てた」という説が持ち上がり「八丈島から泳いでこいってか」と返されたところ、秀家の妙にイケメンな肖像画に「泳いで参った」と言わせるAAが書き込まれ、人気を博したことからである。