三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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細川忠興(ほそかわ・ただおき)
京の人(1563~1645)
細川藤孝(ふじたか)の子。正室は細川ガラシャ。忠興の「忠」は父が仕えた織田信忠(おだ・のぶただ)からの偏諱である。
父ははじめ足利将軍家に仕えていたが、将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が織田信長に追放されると織田家に鞍替えした。
1577年、元服前の15歳で、後に岳父となる明智光秀に従い初陣を飾った。
信長からも将来を見込まれていたようで、光秀の三女・玉子(たまこ 後のガラシャ)をめとった際、九曜の紋を細川家の家紋とするよう命じたが、これは以前、信長の脇差しの柄に描かれた九曜の紋を忠興が気に入っていたのを覚えていたためとされる。
また1581年の京都御馬揃えにも19歳の若さで参加を許され、その際に信長が着た小袖は、忠興が献上したものだという。
だが1582年、光秀は本能寺で信長を暗殺した。
光秀は婿の忠興父子を傘下に置こうとしたが、父子はこれを拒絶し、藤孝は信長に弔意を表し剃髪した上に隠居し細川幽斎(ゆうさい)と号した。
さらに玉子(ガラシャ)を反逆者の一族として幽閉したため、光秀が味方に見込んだ筒井順慶(つつい・じゅんけい)らも様子見に回ってしまい、思うように戦力を集められなかった光秀は、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉軍に敗れ戦死を遂げた。
その後は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、九州・小田原征伐、文禄の役などで忠興は主力の一角を担った。
1595年、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が切腹を命じられると多くの大名が連座して処罰を受け、細川家も秀次に多大な借金があったため嫌疑をかけられたが、家老の松井康之(まつい・やすゆき)が奔走し秀吉へ返済し、事なきを得た。
この時に多くの金子を用立てたのが徳川家康で、以降は徳川家との仲が親密となった。
また松井康之は秀吉に手腕を見込まれ18万石で大名に取り立てようと誘われたが、細川家の家臣だからと断ったという。
1598年、秀吉が没すると石田三成ら文治派と忠興・加藤清正・福島正則ら武断派の対立が深刻化し、忠興らが三成の屋敷を襲撃する事態にまで発展した。
三成は盟友・佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の助けで脱出したが、両陣営は決裂し1600年、ついに関ヶ原の戦いを招いた。
忠興は豊臣恩顧の外様大名の中でも有力株で、また父や妻が京におり、家康の東軍につけば三成率いる西軍にすぐさま人質に取られる立場だったため去就が注目されたが、いち早く東軍につくと表明したため、豊臣恩顧の多くの大名が後に続いたという。
ガラシャは人質に取られようとしたが拒絶し自害したため、他の大名の妻子たちもそれに続く姿勢を見せ、西軍は思うように人質が取れなくなった。
また父の幽斎も城を西軍に囲まれたが、日本一の文化・教養の知識を持つ幽斎を惜しんだ朝廷が勅命で停戦を命じ、幽斎を保護させた。
豊後の細川領ではかつて同地を治めた大友義統(おおとも・よしむね)が残党を率いて決起したものの、松井康之と有吉立行(ありよし・たてゆき)が防戦し、やがて黒田如水の援軍が駆けつけると大友軍は撃破された。
このように開戦前後で細川家は多くの目覚しい働きを見せ、本戦でも忠興は西軍主力とぶつかり136もの首級を挙げ勝利に貢献し、戦後には3倍もの加増を得た。
1615年、大坂夏の陣にも参戦した。
1620年、三男の細川忠利(ただとし)に家督を譲り58歳で隠居し、83歳で没するまで悠々と暮らした。
~天下一短気な男~
豊臣・徳川政権を通じて武断派の外様大名の代表的存在として知られる。
非常に気が短く「天下一の短気」と記されたり、若い頃には明智光秀に「降伏してくる者をむやみに殺すな」とたしなめられた。
その苛烈な性格は身内にも容赦なく、父の幽斎が関ヶ原の戦いに際し居城を大軍に囲まれ、勅命で明け渡したことにも腹を立て、一時は絶縁状態となった。
また妹が嫁いだ一色家を騙し討ちの末に敗残兵を皆殺しにし、出戻った妹の細川伊也(いや)には短刀で斬りつけられ、すんでのところで致命傷は避けたものの鼻に大きな傷が残ったという。
なお伊也も後に再嫁すると夫に「足を揉んでくれ」と頼まれたのに怒り実家に帰ったりと、兄譲りの気性の激しさである。
また長男の細川忠隆(ただたか)は、ガラシャが自害した際に忠隆の妻は無事に逃がされたと聞き激怒した忠興に離縁を命じられたが、それを断ったため廃嫡された。忠隆は後に妻を連れ祖父の幽斎のもとで隠居したという。
次男の細川興秋(おきあき)は忠隆の養子になっていた時期があったため、同じく忠興に疎まれた。家督は三男の細川忠利に譲られると決まり、代役で人質に出されるところを出奔し、浪人となった末に豊臣家に仕えた。
大坂の陣の後、家康は興秋を無罪としたが、忠興は自害を命じたという。
妻のガラシャとは仲睦まじく、戦国一の美男美女の夫婦と呼ばれた。
だが忠興は妻をひと目のぞき見した植木職人を殺すほど嫉妬深く、文禄の役で渡海した折に家に出した手紙では「秀吉に誘われても断れ」と繰り返し書いていたという。
だがガラシャが息子の病気に悩みキリシタンに改宗すると忠興は激怒し、ガラシャの侍女の鼻を削いで棄教を迫り、夫婦の仲は急速に冷えた。
それでもガラシャが自害すると、無事に逃げおおせた長男の嫁に離縁を命じるなど、行き過ぎとはいえ愛情は変わりなかったようだ。
むろん家臣にも過酷で、隠居後には家督を継いだ細川忠利の家臣を呼びつけ、働きが悪いと難癖をつけては次々と自ら首を刎ねた。
その数36人に及ぶと、三十六歌仙にちなみ愛刀を「歌仙兼定」と名づけたという。(その他にも忠興が自ら斬った相手にちなんで名づけた刀が数振り伝わっている)
一方で「利休七哲」に数えられるほど千利休の高弟として名高い文化人で、父にも劣らぬ教養を身につけていた。
その才能は幅広く、茶器や具足、刀を自ら考案した。また文化を通じ多くの大名や公卿と交流し、居ながらにして天下の情報を集めたという。
これでも晩年は角が取れ、穏やかな性格になったというがどこまで本当かは定かではない。
ネット上で「天下一のヤンデレ」「戦国DQN四天王」と揶揄されるのも仕方ないだろう。