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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―脇坂安治  日本一の(?)名将

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戦国列伝―脇坂安治  日本一の(?)名将



脇坂安治(わきさか・やすはる)
近江の人(1554~1626)

はじめ浅井長政に仕えたが、1573年に織田信長によって滅ぼされると明智光秀の麾下に入った。
丹波攻めで「赤鬼」の異名を取る赤井直正(あかい・なおまさ)にその武勇を認められ貂の皮で作られた槍鞘を拝領し、貂の皮は以来、脇坂家の象徴として広く知られるが、これは事実ではなく家名を上げるための創作と思われる。

その後、光秀との間に確執が生まれたか、自ら志願して羽柴秀吉に仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正、福島正則らとともに活躍し「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。柴田勝家の甥・勝政(かつまさ)を討ち取ったともされる。

戦功を立て続け、1585年には淡路国洲本で3万石を与えられ、主に水軍を率いた。
文禄の役では夜襲で李洸(りこう)の5万の大軍を破ったが、功を焦って抜け駆けし李舜臣(りしゅんしん)に大敗した。
この逸話は韓国ドラマ「不滅の李舜臣」で脚色され、安治は「日本一の名将」として登場するらしいが、国益のためなら平気で事実を歪曲するかの国は流石であるし、その後の安治は命令に従って戦い、李舜臣を何度も打ち破ったという。

1598年、秀吉が没すると安治は徳川家康に接近した。
しかし1600年、関ヶ原の戦いに際しては石田三成の妨害工作を受け、やむなく西軍に加わった。
本戦では家康との内通を疑われる小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)への備えを朽木元綱(くつき・もとつな)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、赤座直保(あかざ・なおやす)とともに命じられたが、小早川秀秋はもちろん安治も家康と通じており、小早川軍が東軍に寝返るとすかさず安治も反旗を翻し、さらに朽木元綱ら三将も尻馬に乗って寝返ったため、右翼の軍勢が一斉に敵に回った西軍は抗し切れず、大敗を喫した。
だが戦後、事前に寝返りを約束していた小早川秀秋と安治は所領を安堵されたが、朽木元綱ら三将は改易となった。

1615年、長男は早逝していたため次男の脇坂安元(やすもと)に家督を譲り隠居した。
安元は大坂の陣で活躍した他、武家第一の歌人と呼ばれる教養人で、また養子に徳川家光の信任厚かった堀田正盛(ほった・まさもり)の子を迎え譜代大名に名を連ねるなど、明治を乗り越え現代まで続く脇坂家の発展に貢献した。

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