三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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蘆名義広(あしな・よしひろ)
常陸の人(1575~1631)
常陸の大名・佐竹義重(さたけ・よししげ)の次男。
1584年、当主の蘆名盛隆(あしな・もりたか)が痴話喧嘩から家臣に殺され、その子もわずか3歳で没したため、蘆名家は同盟する他家から養嗣子を迎え入れる必要に迫られた。
一門衆の猪苗代盛国(いなわしろ・もりくに)らは伊達小次郎(だて・こじろう)を、金上盛備(かながみ・もりはる)ら重臣は義広を推し、政争の末1587年に義広が当主として迎えられた。
しかし13歳の義広は国政を取り仕切れず、佐竹家から送り込まれた大縄義辰(おおなわ・よしとき)ら家臣団が専権を振るい、伊達方についた蘆名家の家臣を次々と失脚させた。
当主の話が破談となり、支持派を次々と葬られた伊達政宗(小次郎は彼の弟)も激怒し、蘆名家との関係は完全に決裂した。
同年、蘆名・伊達家の援助により7年にわたり上杉家への反乱を継続していた新発田重家(しばた・しげいえ)が、豊臣秀吉の支援を得た上杉景勝によって討たれた。
1588年の郡山合戦では、佐竹家・相馬家と組み伊達政宗と戦うも敗北。
1589年には先に伊達小次郎を擁立した猪苗代盛国が伊達家に寝返るなど、蘆名家は坂を転げ落ちるように衰退していき、ついに摺上原の戦いで政宗に大敗し息の根を止められた。
蘆名四天王に数えられる富田氏実(とみた・うじざね)をはじめ多くの家臣があるいは勝手に戦線離脱し、あるいは傍観しとまともな戦にならず、他の四天王や金上盛備らが戦死した。
義広は無事に逃げ切ったがもはや抵抗する力はなく、大縄義辰らとともに佐竹家へ落ち延びていった。
同行する人数は20名とも、女中ら非戦闘員を合わせ119名とも記される。
これにより戦国大名としての蘆名家は滅亡し、1590年に秀吉の奥州仕置によって伊達政宗は蘆名領を全て没収されたものの、義広に返還されず蒲生氏郷(がもう・うじさと)に与えられてしまった。
その後、義広は佐竹家の与力大名として常陸江戸崎に4万5千石を与えられ大名に復帰したものの、1600年の関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣(よしのぶ)が西軍に与したため、再び所領を没収された。
義広は大名復帰に際し蘆名家の伝統にちなみ盛重(もりしげ)と改めていた名を、佐竹家にちなんだ義勝(よしかつ)と改め、秋田に転封した義宣に付き従った。
角館に1万6千石を与えられると城下町の発展に尽くし、1631年に没した。享年57。
摺上原の戦いの際には20名ほどしかいなかったが、角館に蘆名家の旧臣は200名ほど集まっていたという。
※アイコンは薛礼
蘆名盛隆(あしな・もりたか)
陸前の人(1561~1584)
二階堂盛義(にかいどう・もりよし)の長男。
5歳の時、父が蘆名盛氏(あしな・もりうじ)に降伏し、人質として送られた。
だが1575年、盛氏の子で当主の蘆名盛興(もりおき)が若くして没し、男子も兄弟もいなかったため、盛隆が盛興の未亡人(盛隆の叔母にあたる)を正室に迎え、蘆名家を継いだ。
1580年に盛氏が没してからは独自に采配を振るった。
1581年、盛隆は叔父の伊達輝宗(だて・てるむね)と共謀し、新発田重家(しばた・しげいえ)を上杉家から離反させた。
重家の武勇と巧みな采配、蘆名・伊達家の援助により以降7年もの長期間にわたり、上杉家を苦しめた。
当初の盛隆は陰ながら援助をするだけで、上杉家との外交は途絶えていなかったが、織田信長が上杉家を挟撃するため同盟を持ちかけ(盛隆から持ちかけたとする説も)1582年には上杉家と戦闘状態に入った。
盛隆は蘆名家当主の地位を利用し、実家の二階堂家の復権に努めた。
これに反発した蘆名家の旧来の家臣がたびたび反乱を起こし、上杉景勝も彼らを援助し揺さぶりを掛けた。
1584年には栗村盛胤(くりむら・もりたね)、松本行輔(まつもと・ゆきすけ)らが、盛隆が参詣に出た隙をつき居城の黒川城を占拠したが、翌月には奪回された。
しかし同年10月、寵愛する家臣の大庭三左衛門(おおば・さんざえもん)に襲われ、盛隆は没した。享年23。
三左衛門とは衆道の間柄にあり、痴話喧嘩の末の凶行とされる。
家督は生後1ヶ月の息子である蘆名亀王丸(かめおうまる)が継ぎ、叔父の伊達輝宗が後見したが(盛隆の母と正室は姉妹である)、それを機に伊達家の家督を譲られた伊達政宗は翌年に蘆名家との同盟を破棄。
さらに翌年には輝宗の暗殺と亀王丸の急逝が重なり、蘆名家の混乱に拍車が掛かるのであった。
※アイコンは蒋済
蘆名盛興(あしな・もりおき)
陸奥の人(1547~1574)
蘆名盛氏(もりうじ)の嫡子。盛氏は正室の他に妻を持たず、結婚から10年目に生まれた待望の男子だった。
名門・蘆名家の最盛期を築いた父の素質を受け継ぎ、14歳で家督を譲られたが、盛氏は第一線を退かず二頭政治を布いたと思われる。
1566年には伊達輝宗(だて・てるむね)の妹を正室に迎え同盟を強化し、順風満帆に見えたが1574年、28歳の若さで没した。
死因は酒毒(アルコール中毒)とされ、盛氏が2度にわたり領内での酒造を禁止していることから、盛興の酒豪ぶりを懸念していたと推測される。
盛興に男子はなく、他に兄弟もなかったため他家から養嗣子を迎えたが、その後も当主の早逝が相次ぎ、蘆名家は一気に凋落していくこととなる。
※アイコンは公孫康
松前慶広(まつまえ・よしひろ)
蝦夷の人(1548~1616)
蝦夷の大名・蠣崎季広(かきざき・すえひろ)の三男。
兄2人は実姉に毒殺されたため、1582年の父の隠居に伴い家督を継いだ。
蠣崎家は出羽に一大勢力を築く安東家に古くから従属しており、安東家の意向で季広の代にはアイヌ民族と融和路線に転じ、蝦夷の支配権を確立していた。(季広の独断とする説もある)
1590年、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、慶広は蝦夷の代官として安東実季(あんどう・さねすえ)に随行し上洛した。
そして前田利家に取り入り秀吉に謁見すると、所領安堵と従五位下・民部大輔の官位を得て、名実ともに安東家からの独立を果たした。
季広はこれを大いに喜び、「自分はこれまで安東家に仕えてきたが、お前は天下の将軍の臣となった」と息子を伏し拝んだという。
1591年、九戸政実(くのへ・まさざね)の乱が起こると慶広も出陣を命じられた。
その際にはアイヌから得た毒矢を用い、大変な威力を誇ったと記録されている。
1593年、文禄の役に先立ち秀吉に謁見すると「狄の千島の屋形(異民族の島の主)」が参戦することは、同じ異民族と戦うにあたって成功の兆しであると秀吉は大喜びし、さらに上位の官位を与えようとした。
慶広はそれを辞退し、代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求めた。慶広は朱印状をアイヌに示し「命令に背けば秀吉が10万の兵で討伐に来る」と脅し、ついに蝦夷全域(北海道・樺太)の掌握に成功した。
1598年、秀吉が没すると慶広はいち早く徳川家康によしみを通じた。
蝦夷の地図を献上し臣従の証とし、また姓を家康の旧姓「松平」と、秀吉との間を取り持ってくれた「前田」利家から一字ずつもらい受け「松前」と改めた。
これが功を奏し、1604年にはアイヌ交易の独占権を認められ、さらに石高は当時の蝦夷地では稲作が出来なかったため1万石どころか0石にも等しかったものの、松前家は大名格と見なされ松前藩を立てられた。
1609年、猪熊事件(公卿による乱交パーティー)により配流となった花山院忠長(かざんいん・ただなが)を、慶広は賓客として迎え入れた。忠長は5年後に津軽へ移されたが、公家との太いパイプの構築に成功し、松前家には以後、公家の娘が代々輿入れし、松前藩に公家文化をもたらした。
1614年、豊臣家に通じたとして四男を誅殺し、翌年には大坂夏の陣に幕府方として参戦した。
1616年、69歳で没し、長男は早逝していたためその嫡子にあたる松前公広(きんひろ)が19歳で跡を継いだ。
松前藩はその後、幕府にしばしば蝦夷の支配権を奪われることはあったが、明治期まで存続した。
※アイコンは孫乾
支倉常長(はせくら・つねなが)
出羽の人(1571~1622)
伊達政宗の家臣。
名の常長は同時代の資料や本人の署名では確認されず、長経(ながつね)の名を用いたと思われる。
常長の名が現れるのは支倉家がキリシタンを匿った罪でいったん断絶し、再興してからのことであり、長経との関係を隠すため用いだしたとの説がある。
山口家に生まれたが幼少時に伯父の支倉家の養子となった。
長じると政宗のもとで文禄・慶長の役などにも出陣し活躍した。
1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの船が上総で座礁し、地元民に救助された。
徳川家康は三浦按針(みうら・あんじん)の建造したガレオン船をロドリゴに贈り、無事に帰国させたことからエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
それを受け政宗は1612年、常長を正使、エスパーニャ人の宣教師ルイス・ソテロを副使に遣欧使節団を作り、エスパーニャ経由でローマへ送り出した。
目的は通商交渉の他、エスパーニャと軍事同盟を結び、徳川幕府の打倒を狙う意図があったとされる。
一回目の出港は暴風により船が座礁したためすぐに引き返したが、翌年の二回目の船出は成功し、1615年にエスパーニャ国王、ローマ教皇に相次いで謁見がかない、アジア人では初のローマ貴族にも列した。
しかし出港後間もなく、日本国内ではキリスト教の弾圧が強まり、バテレン追放令により高山右近(たかやま・うこん)ら有力者ですら国外追放されるなどしていたため、交渉はまとまらず、常長は1620年に帰国した。
2年後、失意のうちに常長は没し、跡を継いだ嫡子の支倉常頼(つねより)も1640年、家臣がキリシタンであった責任を問われ処刑され、家名は断絶した。
しかし常長の孫の代に再興を許され、以降も伊達家に仕えたという。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は現存し国宝に指定されている。
それに含まれる常長の肖像画は日本人を描いた最古の油絵とされ、また資料の中で「支倉」を「FAXICVRA」と表記したことから当時はハ行を唇音で発音していた証拠となっている。
※アイコンは馬休
津軽信枚(つがる・のぶひら)
陸奥の人(1586~1631)
陸奥津軽の大名・津軽為信(ためのぶ)の三男。
1600年、関ヶ原の戦いでは為信が東軍に、長男の津軽信建(のぶたけ)が西軍についた。
これは真田家や九鬼家のように東西両軍に分かれることで家名存続を図ったと思われる。
信枚は確たる証拠はないが、ある関ヶ原合戦図の東軍本陣に津軽家の旗印である「卍」の旗が描かれていること、戦後に為信を差し置き加増を受けていることなどから、東軍に属したと見られる。
1607年、信建と為信が相次いで没し、次兄も早くに亡くなっていたため三男ながら家督を継いだ。
父の命で兄弟揃ってキリシタンになっていたが、相続の報告と御礼のため江戸へ上った際、南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)に弟子入りし天台宗に改宗し、熱心な信徒となった。
翌1608年、妹婿の津軽建広(たけひろ)らが信建の遺児・熊千代(くまちよ)を擁し家督争いを起こした。
津軽家は改易の危機に陥ったが、信枚は天海を通じて幕府の後ろ盾を得て、改めて正式に相続し、高坂蔵人(こうさか・くらんど)に命じて建広の城を落とし、熊千代とともに追放した。
ところが1612年、高坂蔵人が信枚の寵愛する小姓を囲い込んだため、小姓と蔵人を粛清する騒動が持ち上がった。
蔵人の遺臣は反乱を起こし、一族郎党と縁者が処刑されたため、累が及ぶのを恐れた者が次々と逃亡し、津軽家の家臣は半減したという。
しかし天海を通じて得た幕府からの信頼は揺るがず、5万石にも満たない大名としては破格の五層の天守を持つ鷹岡城を築き、また天海の勧めで徳川家康の養女・満天姫(まんてん)を妻に迎え入れた。
信枚はすでに石田三成の娘で、豊臣秀吉の正室ねねの養女でもある辰姫(たつ)を正室にしていたが、側室に降格させて満天姫を正室とした。
この婚姻は豊臣家と縁戚の信枚の去就をうかがう政治的な意味合いも強く、辰姫も納得ずくのようで、上野の飛び領地に移り住んだ辰姫を、信枚は参勤交代のたびに訪ね、1619年には満天姫に先駆けて長男をもうけるなど、夫婦仲は変わらず睦まじかった。
1614年、大坂冬の陣では兵を率いて江戸に上ったが、家康から江戸城の守備を命じられた。
なお弘前藩の記録では東北の抑えとして帰国を命じられたと記されている。
1616年、家康が没し、翌年に家康を祀る日光東照宮が建立されると、信枚は鷹岡に勧請(分霊)を申し出た。天海の働きかけもあり、徳川御三家や名だたる親藩・譜代大名に先駆け許諾された。
このように幕府との関係は良好かと思われたが1619年、突如として信濃川中島10万石へと移封を命じられた。
石高こそ倍増するが先祖代々の土地を離れること、移封に莫大な費用が掛かること、また津軽に代わって入るのは無断の築城で減封となった福島正則であることなど、実質的に処罰に等しかった。
ところが内示から1ヶ月も経たないうちに話は撤回され、福島正則が信濃川中島4万5千石に移封することで決着した。
移封の理由は謎に包まれたままで、かつての家督争いや豊臣家との関係や、幕府内の派閥争いが原因とも言われており、いずれにしろ信枚や満天姫、天海らの奔走により立ち消えになったと思われる。
1627年、鷹岡城の天守が落雷で炎上し、火薬に引火し大爆発を起こし本丸を焼失した。
炎の中に信枚の伯母(為信の妻の姉)を見たという者がおり、彼女は為信に実家を乗っ取られ失意のうちに没しているため、祟りと噂された。(ちなみに妻の幼い弟らが溺死を遂げているがこれは為信による暗殺と言われている)
信枚は天海に相談し、天台密教の破邪の法から鷹岡を「弘前」に改めた。
信枚は城下町の発展に尽くし、新たに青森港を築き、後の弘前市、青森市の繁栄に寄与し1631年、江戸藩邸にて48歳で没した。
跡継ぎには正室・満天姫の子ではなく、信枚の強い意向により辰姫の子で石田三成の孫にあたる、13歳の津軽信義(のぶよし)が立てられた。
信義は暗愚と言われ、立て続けに御家騒動を2つ巻き起こしたものの、どうにか改易も減封も免れ、弘前藩は幕末まで存続した。
※アイコンは顔良
九戸政実(くのへ・まさざね)
陸奥の人(1536~1591)
九戸家は南部家の分家にあたり、室町幕府からは南部宗家と同格に見られていたとされる。
政実は11代目の当主で武勇に優れ、南部宗家の当主・南部晴政(なんぶ・はるまさ)に協力した。
1565年、晴政は男子に恵まれなかったため、一族で重臣の石川高信(いしかわ・たかのぶ)の子・南部信直(のぶなお)を後継者として長女の婿養子に迎えた。
さらに次女を政実の弟・九戸実親(さねちか)に嫁がせ地盤を固めたが1570年、晴政に待望の男子である南部晴継(はるつぐ)が生まれ、事態はこじれた。
実子に跡を継がせたい晴政と養嗣子の信直は対立し、1576年に信直の妻(晴政の長女)が没すると、信直は嗣子の座を辞して城を退去した。
1582年、晴政が没すると晴継が家督を継いだが、父の葬儀の帰り道に暴漢に襲われるという不自然な死を遂げた。
信直と九戸実親の間で家督争いが繰り広げられ、信直の重臣・北信愛(きた・のぶちか)がまるで晴継の急死を予見していたように事前に八戸家を調略していたため、信直が後継者に決まった。
すでに嗣子の座を自ら退いており、晴継暗殺の疑いも濃い信直が家督を継いだことに政実は大いに不満を抱いた。
その後の政実は独立色を強め、南部宗家の当主を自称し出し、ついには1591年に挙兵した。
政実の用兵は巧みで、また豊臣秀吉による天下統一のなった現在、内乱の鎮圧で活躍しても恩賞は期待できないと考えた家臣は積極的に戦おうとしなかったため信直は苦戦した。
信直はとうとう自力での鎮圧を諦めて秀吉に出兵を要請し、豊臣秀次(ひでつぐ)を総大将に石田三成、蒲生氏郷(がもう・うじさと)、浅野長政(あさの・ながまさ)らの率いる討伐軍が編成され、そこに奥州各地の大名が加わり6万もの大軍に膨れ上がった。
政実・実親は九戸城で十倍以上の敵を迎え撃ち善戦したものの、3日で抗戦を諦め開城降伏した。
当初は助命を約束されたが、結局は秀吉の許しを得られず、城に残っていた実親と重臣は残らず殺され、政実も斬首された。享年56。
九戸一族は老若男女を問わず処刑されたが、他家を継ぎ信直を支持していた政実・実親の弟の中野康実(なかの・やすざね)には累は及ばず、中野家は北家・八戸家らとともに南部家の「三家老」として代々仕えたという。
※アイコンは王子法
大崎義隆(おおさき・よしたか)
陸奥の人(1548~1603)
陸奥の大名で大崎家11代当主の大崎義直(よしなお)の子。
義隆が生まれた時、義直は伊達稙宗(だて・たねむね)の子である大崎義宣(よしのぶ)を養嗣子として迎えていたが、稙宗が息子の伊達晴宗(はるむね)との争いに敗れ失脚したため、義宣を暗殺し、実子の義隆を改めて後継者に据えた。
大崎家は伊達晴宗に味方したため、その子の伊達輝宗(てるむね)の代になっても両家は親しく、また出羽の最上家とは先祖を等しくするためやはり関係は良好で、義隆は妹を最上義光(もがみ・よしあき)に嫁がせていた。
しかし隣国の葛西家とは険悪で、長らく戦いが続いていた。
1586年、大崎家で内紛が起こると、伊達家を継いでいた伊達政宗は、すでに天下を統一しつつあった豊臣秀吉の発した惣無事令(戦闘禁止令)を無視し、内紛に乗じて大崎領に攻め込んだ。
大崎家は氏家吉継(うじいえ・よしつぐ)をはじめ離反者が続出したが、両家と境を接する黒川晴氏(くろかわ・はるうじ)が伊達軍を背後から急襲したため、政宗は撤退した。
政宗は父・祖父が奥州一円に構築した同盟網を破り、周辺諸国のほとんどと敵対していた。
さらに最上家と伊達家が敵対すると、最上家から伊達家に嫁いでいた政宗の母・義(よし)は両家の潰し合いを恐れ、強引に停戦させた。
大崎家も伊達家と和睦し、義隆は「伊達家に従属する」「最上家と縁を切る」「氏家家を攻撃しない」三ヶ条を結んだ。
後顧の憂いを除いた政宗は南進し、摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼした。
政宗はさらに和睦の裏で大崎家の家臣に調略を仕掛けていたが1590年、秀吉が小田原征伐のため全国の大名に参戦を呼びかけた。
政宗は去就を迷ったが土壇場で呼びかけに応じたものの、義隆は伊達家の意向を図りかね家臣を送るだけに留めたため、戦後に秀吉は義隆ら自ら馳せ参じなかった大名を取り潰した。
義隆は奥州仕置を担当する石田三成に泣きつき、所領の3分の1の安堵を許されたものの、大崎・葛西家の旧臣が処分に不服と蜂起し、葛西大崎一揆と呼ばれる大規模な反乱を起こしたため、所領安堵は取り消されあえなく大崎家は滅亡した。
義隆のその後は定かではないが、表舞台から姿を消した後に蒲生家、次いで上杉家に大崎左衛門(さえもん)なる人物が現れており、これが義隆と推測される。
左衛門は石田三成の父に手紙を送っており、同一人物説を補強している。
左衛門ははじめ蒲生家に仕えたが、蒲生家が減封により会津から去ると代わって会津に入った上杉景勝に仕え、直江兼続の指揮下に配された。
1600年、関ヶ原の戦いで上杉軍は伊達軍と戦い、この時に左衛門の子が戦死したと伝わる。
伊達家の史料によると1603年、義隆は会津で没した。
上杉家は会津を追われ蒲生家が当地に戻っていたため、最期は蒲生家に仕えたと思われる。
しかし義隆の子と思われる人物が1612年頃に最上家の家臣に見えることから、最上家に移ったとする説もある。
※アイコンは公孫淵
秋田実季(あきた・さねすえ)
出羽の人(1576~1660)
出羽に一大勢力を築き、その繁栄ぶりを北斗七星にたとえられた安東愛季(あんどう・ちかすえ)の次男。
1587年、父が没したため12歳で家督を継いだ。
もともと安東家は檜山系と湊系の二家に分かれ争っていたが、和解のため両家の子女の間で婚姻が交わされ、そうして生まれた愛季が父方の檜山系が母方の湊系を吸収する形で安東家を統一していた。
しかし愛季の死を好機と、実季の従兄で12歳年長の安東通季(みちすえ)が、湊系の再興を掲げて反乱を起こした。
通季は日本海沿岸部への領土拡大を目論む内陸部の勢力や、陸奥に広大な領地を持つ南部信直(なんぶ・のぶなお)と結び、兵力差では圧倒していたが、檜山城に籠城した実季は、わずか300挺の鉄砲を駆使し十数倍の敵から5ヶ月にわたり城を守り抜いた。
南部領の北部では大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、戦乱は東北一円を巻き込んだが、為信との連携も功を奏し、実季が勝利を収め、通季は南部家へ落ち延びていった。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に応じ参戦した。
安東家の内乱は惣無事令(戦闘禁止令)への違反として問題視されかけたが、実季の根回しもあり所領8万石のうち3分の2は安堵され、残り3分の1は蔵入地ながら実季が代官に任じられる寛大な処置が取られた。
実季は新たに湊城を築いて居城に定め、姓も秋田に改めた。
1591年の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱、翌年からの文禄・慶長の役にも出兵し武功を立てた。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の正室・江姫(ごう)の従姉妹をめとっていたこともあり東軍についた。
最上義光(もがみ・よしあき)は実季が裏で西軍方の大名と通じていたと謀略を仕掛けたが、実季は徳川家康に自ら弁明し疑惑を晴らした。
1602年、関ヶ原で西軍についた佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)が秋田へ減転封されたことを受け、実季は常陸宍戸に移された。
実質的に処罰に等しく、蔵入地となっていた旧来の領地を豊臣家の領地と見なされ没収されたことに不満を抱いたことが原因と思われる。
1615年、大坂夏の陣では快進撃で家康の本陣にまで迫った毛利勝永(もうり・かつなが)と相対してしまい、大損害を被った。
1630年、泰平の世でも戦国大名の気質の抜けない実季は幕府ににらまれ、突如として蟄居を命じられた。
嫡子で徳川家の縁戚にあたる秋田俊季(としすえ)との確執や、依然として残る檜山系と湊系の家臣の対立なども背景にあったと考えられる。
以降、実季は30年の長きにわたり伊勢の草庵で蟄居生活を余儀なくされ、同地で85歳で没した。
秋田家は1645年に陸奥三春5万5千石へ転封となったが、幕末まで存続している。
※アイコンは袁譚
伊達秀宗(だて・ひでむね)
陸奥の人(1591~1658)
伊達政宗の庶長子。幼名は兵五郎(ひょうごろう)。
4歳で豊臣秀吉の人質となり、父のもとを離れ伏見城で育った。
翌年、豊臣秀次(ひでつぐ)が処刑されると、秀次と懇意だった政宗も連座し、隠居のうえ兵五郎に家督を譲り伊予に移封するよう命じられた。
徳川家康のとりなしにより許されたものの、伊達家の重臣19名による連署で「もし政宗に叛逆の意志があればただちに隠居させ、兵五郎に家督を譲る」誓約を立てさせられた。
1596年、元服すると秀吉から一字もらい受け秀宗と名乗り、秀吉の嫡子・豊臣秀頼(ひでより)の小姓に取り立てられた。
秀頼と遊びで格闘した際に、年長の秀宗が勝ち秀頼を組み伏せたが、とっさに懐紙を出してその上から踏みつけ、直接には足蹴にしない配慮を見せ、秀吉を感心させたと伝わる。
秀吉が没し1600年、関ヶ原の戦いが起こると、秀宗は石田三成に捕らわれ人質とされた。
政宗は東軍についたが秀宗に手出しはされず、戦後には徳川家康への人質として江戸に預けられた。
1602年、政宗と正室の愛姫(めご)の間に伊達忠宗(ただむね)が生まれると、それまで後継者と目されてきた秀宗は微妙な立場に置かれた。
1609年、19歳となった秀宗は亡き徳川四天王・井伊直政の娘をめとり徳川陣営に迎えられた。
一方で征夷大将軍となっていた徳川秀忠から一字もらい受けた忠宗が、事実上の政宗の後継者に据えられた。
秀宗が遠ざけられた理由は、側室の子であること、豊臣家と関わりが深いこと、が挙げられている。
だが後に徳川家光に拝謁した際には、忠宗よりも上座を望み、伊達家の長子であることを示したという。
1614年、大坂冬の陣で政宗とともに初陣を飾り、戦後に政宗に与えられた伊予宇和島10万石はそのまま秀宗に譲られ、別家を立てられた。
家臣団には政宗が自ら選んだ重臣があてられ、多くの支度金も持たされた。
だが1620年、政宗が家老としてつけていた山家公頼(やんべ・きんより)が対立する家臣によって暗殺された。
秀宗はこれを父にも幕府にも報告しなかったため、激怒した政宗は秀宗を勘当し、宇和島藩の返上を幕府に申し出た。
老中・土井利勝(どい・としかつ)の仲裁により返上は退けられ、父子は面会の場を設けられた。
そこで秀宗は家督を譲られなかったこと、長らく人質生活を送らされたこと等、恨みつらみを正直に父にぶつけた。
腹蔵なく語り合ったことにより父子は和解し、政宗は勘当を解き、以降は和歌や贈り物を交換しあうほどに関係は修復された。
1636年、政宗が没すると秀宗は葬儀に参列した。長子でありながら秀宗が仙台に足を踏み入れたのはこれが最初で最後であった。
翌年には秀宗も体調を崩し、長男も病弱で家督相続を辞退していたため、藩政は次男の伊達宗時(むねとき)が代行した。
1653年、宗時も没すると三男の伊達宗利(むねとし)が嫡子となり、1657年に家督を譲り、翌1658年に秀宗は68歳で没した。
宇和島藩の初代藩主であるが、幕末の藩主が二代にわたり名君と仰がれたこともあり、秀宗の陰は薄くなり現在の宇和島市には銅像も石碑も残っていない。
しかし彼ら子孫の活躍により宇和島藩の伊達家は侯爵に列し、伯爵どまりとなった仙台藩の本家よりも家格は上になったという。