三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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伊達秀宗(だて・ひでむね)
陸奥の人(1591~1658)
伊達政宗の庶長子。幼名は兵五郎(ひょうごろう)。
4歳で豊臣秀吉の人質となり、父のもとを離れ伏見城で育った。
翌年、豊臣秀次(ひでつぐ)が処刑されると、秀次と懇意だった政宗も連座し、隠居のうえ兵五郎に家督を譲り伊予に移封するよう命じられた。
徳川家康のとりなしにより許されたものの、伊達家の重臣19名による連署で「もし政宗に叛逆の意志があればただちに隠居させ、兵五郎に家督を譲る」誓約を立てさせられた。
1596年、元服すると秀吉から一字もらい受け秀宗と名乗り、秀吉の嫡子・豊臣秀頼(ひでより)の小姓に取り立てられた。
秀頼と遊びで格闘した際に、年長の秀宗が勝ち秀頼を組み伏せたが、とっさに懐紙を出してその上から踏みつけ、直接には足蹴にしない配慮を見せ、秀吉を感心させたと伝わる。
秀吉が没し1600年、関ヶ原の戦いが起こると、秀宗は石田三成に捕らわれ人質とされた。
政宗は東軍についたが秀宗に手出しはされず、戦後には徳川家康への人質として江戸に預けられた。
1602年、政宗と正室の愛姫(めご)の間に伊達忠宗(ただむね)が生まれると、それまで後継者と目されてきた秀宗は微妙な立場に置かれた。
1609年、19歳となった秀宗は亡き徳川四天王・井伊直政の娘をめとり徳川陣営に迎えられた。
一方で征夷大将軍となっていた徳川秀忠から一字もらい受けた忠宗が、事実上の政宗の後継者に据えられた。
秀宗が遠ざけられた理由は、側室の子であること、豊臣家と関わりが深いこと、が挙げられている。
だが後に徳川家光に拝謁した際には、忠宗よりも上座を望み、伊達家の長子であることを示したという。
1614年、大坂冬の陣で政宗とともに初陣を飾り、戦後に政宗に与えられた伊予宇和島10万石はそのまま秀宗に譲られ、別家を立てられた。
家臣団には政宗が自ら選んだ重臣があてられ、多くの支度金も持たされた。
だが1620年、政宗が家老としてつけていた山家公頼(やんべ・きんより)が対立する家臣によって暗殺された。
秀宗はこれを父にも幕府にも報告しなかったため、激怒した政宗は秀宗を勘当し、宇和島藩の返上を幕府に申し出た。
老中・土井利勝(どい・としかつ)の仲裁により返上は退けられ、父子は面会の場を設けられた。
そこで秀宗は家督を譲られなかったこと、長らく人質生活を送らされたこと等、恨みつらみを正直に父にぶつけた。
腹蔵なく語り合ったことにより父子は和解し、政宗は勘当を解き、以降は和歌や贈り物を交換しあうほどに関係は修復された。
1636年、政宗が没すると秀宗は葬儀に参列した。長子でありながら秀宗が仙台に足を踏み入れたのはこれが最初で最後であった。
翌年には秀宗も体調を崩し、長男も病弱で家督相続を辞退していたため、藩政は次男の伊達宗時(むねとき)が代行した。
1653年、宗時も没すると三男の伊達宗利(むねとし)が嫡子となり、1657年に家督を譲り、翌1658年に秀宗は68歳で没した。
宇和島藩の初代藩主であるが、幕末の藩主が二代にわたり名君と仰がれたこともあり、秀宗の陰は薄くなり現在の宇和島市には銅像も石碑も残っていない。
しかし彼ら子孫の活躍により宇和島藩の伊達家は侯爵に列し、伯爵どまりとなった仙台藩の本家よりも家格は上になったという。