三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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秋田実季(あきた・さねすえ)
出羽の人(1576~1660)
出羽に一大勢力を築き、その繁栄ぶりを北斗七星にたとえられた安東愛季(あんどう・ちかすえ)の次男。
1587年、父が没したため12歳で家督を継いだ。
もともと安東家は檜山系と湊系の二家に分かれ争っていたが、和解のため両家の子女の間で婚姻が交わされ、そうして生まれた愛季が父方の檜山系が母方の湊系を吸収する形で安東家を統一していた。
しかし愛季の死を好機と、実季の従兄で12歳年長の安東通季(みちすえ)が、湊系の再興を掲げて反乱を起こした。
通季は日本海沿岸部への領土拡大を目論む内陸部の勢力や、陸奥に広大な領地を持つ南部信直(なんぶ・のぶなお)と結び、兵力差では圧倒していたが、檜山城に籠城した実季は、わずか300挺の鉄砲を駆使し十数倍の敵から5ヶ月にわたり城を守り抜いた。
南部領の北部では大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、戦乱は東北一円を巻き込んだが、為信との連携も功を奏し、実季が勝利を収め、通季は南部家へ落ち延びていった。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に応じ参戦した。
安東家の内乱は惣無事令(戦闘禁止令)への違反として問題視されかけたが、実季の根回しもあり所領8万石のうち3分の2は安堵され、残り3分の1は蔵入地ながら実季が代官に任じられる寛大な処置が取られた。
実季は新たに湊城を築いて居城に定め、姓も秋田に改めた。
1591年の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱、翌年からの文禄・慶長の役にも出兵し武功を立てた。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の正室・江姫(ごう)の従姉妹をめとっていたこともあり東軍についた。
最上義光(もがみ・よしあき)は実季が裏で西軍方の大名と通じていたと謀略を仕掛けたが、実季は徳川家康に自ら弁明し疑惑を晴らした。
1602年、関ヶ原で西軍についた佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)が秋田へ減転封されたことを受け、実季は常陸宍戸に移された。
実質的に処罰に等しく、蔵入地となっていた旧来の領地を豊臣家の領地と見なされ没収されたことに不満を抱いたことが原因と思われる。
1615年、大坂夏の陣では快進撃で家康の本陣にまで迫った毛利勝永(もうり・かつなが)と相対してしまい、大損害を被った。
1630年、泰平の世でも戦国大名の気質の抜けない実季は幕府ににらまれ、突如として蟄居を命じられた。
嫡子で徳川家の縁戚にあたる秋田俊季(としすえ)との確執や、依然として残る檜山系と湊系の家臣の対立なども背景にあったと考えられる。
以降、実季は30年の長きにわたり伊勢の草庵で蟄居生活を余儀なくされ、同地で85歳で没した。
秋田家は1645年に陸奥三春5万5千石へ転封となったが、幕末まで存続している。