三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大崎義隆(おおさき・よしたか)
陸奥の人(1548~1603)
陸奥の大名で大崎家11代当主の大崎義直(よしなお)の子。
義隆が生まれた時、義直は伊達稙宗(だて・たねむね)の子である大崎義宣(よしのぶ)を養嗣子として迎えていたが、稙宗が息子の伊達晴宗(はるむね)との争いに敗れ失脚したため、義宣を暗殺し、実子の義隆を改めて後継者に据えた。
大崎家は伊達晴宗に味方したため、その子の伊達輝宗(てるむね)の代になっても両家は親しく、また出羽の最上家とは先祖を等しくするためやはり関係は良好で、義隆は妹を最上義光(もがみ・よしあき)に嫁がせていた。
しかし隣国の葛西家とは険悪で、長らく戦いが続いていた。
1586年、大崎家で内紛が起こると、伊達家を継いでいた伊達政宗は、すでに天下を統一しつつあった豊臣秀吉の発した惣無事令(戦闘禁止令)を無視し、内紛に乗じて大崎領に攻め込んだ。
大崎家は氏家吉継(うじいえ・よしつぐ)をはじめ離反者が続出したが、両家と境を接する黒川晴氏(くろかわ・はるうじ)が伊達軍を背後から急襲したため、政宗は撤退した。
政宗は父・祖父が奥州一円に構築した同盟網を破り、周辺諸国のほとんどと敵対していた。
さらに最上家と伊達家が敵対すると、最上家から伊達家に嫁いでいた政宗の母・義(よし)は両家の潰し合いを恐れ、強引に停戦させた。
大崎家も伊達家と和睦し、義隆は「伊達家に従属する」「最上家と縁を切る」「氏家家を攻撃しない」三ヶ条を結んだ。
後顧の憂いを除いた政宗は南進し、摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼした。
政宗はさらに和睦の裏で大崎家の家臣に調略を仕掛けていたが1590年、秀吉が小田原征伐のため全国の大名に参戦を呼びかけた。
政宗は去就を迷ったが土壇場で呼びかけに応じたものの、義隆は伊達家の意向を図りかね家臣を送るだけに留めたため、戦後に秀吉は義隆ら自ら馳せ参じなかった大名を取り潰した。
義隆は奥州仕置を担当する石田三成に泣きつき、所領の3分の1の安堵を許されたものの、大崎・葛西家の旧臣が処分に不服と蜂起し、葛西大崎一揆と呼ばれる大規模な反乱を起こしたため、所領安堵は取り消されあえなく大崎家は滅亡した。
義隆のその後は定かではないが、表舞台から姿を消した後に蒲生家、次いで上杉家に大崎左衛門(さえもん)なる人物が現れており、これが義隆と推測される。
左衛門は石田三成の父に手紙を送っており、同一人物説を補強している。
左衛門ははじめ蒲生家に仕えたが、蒲生家が減封により会津から去ると代わって会津に入った上杉景勝に仕え、直江兼続の指揮下に配された。
1600年、関ヶ原の戦いで上杉軍は伊達軍と戦い、この時に左衛門の子が戦死したと伝わる。
伊達家の史料によると1603年、義隆は会津で没した。
上杉家は会津を追われ蒲生家が当地に戻っていたため、最期は蒲生家に仕えたと思われる。
しかし義隆の子と思われる人物が1612年頃に最上家の家臣に見えることから、最上家に移ったとする説もある。